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溶けて行く夏

 ギラギラとした太陽の陽射しを受けて、海辺の街が揺らいで見えた。日陰なんてどこにも無く白壁と朱い屋根の家々が山の斜面に建ち並び、石畳の小径がその隙間を網目の様に這い回っている。

 海はどこまでも青く、白い波間から反射した光が若者の瞳孔を刺激する。灼熱の暑さに体温は著しく上昇し、流れ出す汗のしずくがコンクリートの石段にポタリと落ちて黒い跡を残した。

 フィエスタは先週末終わりを迎えた。真夏に7日間に渡って行われる風物詩。お祭り行事の最後の夜には花火が数発打ち上げられフィナーレを飾る。そのひとときを大切な人と同じ時間を共有する。それがこの街のお約束であり、すっかり定着した慣わしである。

 ところが、カレンはマルコとの待ち合わせをすっぽかした。それだけではない。人の噂によるとカレンはその夜、ミゲルと一緒に過ごしていたのではないかという。マヨール広場のパティオで何人かの人がそれを目撃している。

 他人の噂話程あてにならない事はない。マルコは何度かカレン宛にラインを送ってみたのだが、全てスルーされてしまった。無論、直電などに応答する筈も無く。こうして止むに止まれぬ気持ちになって、カレンの住む学園女子寮の通りの向かいで、姿を現すのをじっと出待ちしているのだ。

 マルコとカレンは知り合って一年近くになる。真面目で実直なマルコに対してカレンは少々自由奔放な性格をしている。時にその勝手な振る舞いに苛立たせられる事もあったが、その度にカレンの天性の美貌を前にすると、いつしか怒りも消滅してしまうのだ。

 しかし、今度ばかりはそうも言っていられない。約束をすっぽかしたばかりか、別の男とフィエスタのフィナーレを過ごしていたとなれば、その真意を問い正したくなる。しかも、相手は女と見れば直ぐに手を出す悪名高きミゲルである。
 マルコとしてはそれが単なる噂話であって真実ではない事を祈るのみであった。

 灼熱の太陽に照りつけられること数時間、3時をやっと過ぎた頃、カレンが姿を現した。
 白いワンピースに麦藁帽子、ブロンドの長い髪が風に吹かれ、整った目鼻立ちが見え隠れする。

 カレンは通りを横切ったところで、石段に腰掛けるマルコの姿をそこに確認して一緒ギョッとした。けれどもすぐに取り繕うと、通りに並んだキッチンカーに立ち寄った。

「暑いわね」
カレンはマルコの側に来て、一言そう言うと、手に持ったアイスクリームを一口舐める。
「座っていいの?」
と、こちらの返事を待たず、少し離れて腰掛ける。

 その肩越しにヨットハーバーに停泊されたヨットの白い帆が風に揺れている。煮え立つ様な空気の層が幾重にも重なって風景の輪郭があやふやになる。
凪いだ様な風が2人の隙間を通り過ぎる。

「何か用なの?」
 すました声でカレンは訊ねた。
「こないだの夜、来なかったな」
「こないだ?」
「フィエスタのフィナーレの夜」
「ああ……」
 カレンは少し何かを思い出す仕草をしては、
「具合が悪かったのよ」と言う。
「具合?」
「そう」
「君を見たという人がいるんだ」
「……」
「ミゲルと一緒だったって」
 カレンはマルコをチラッと見るとアイスを持ったまま石段に手をついた。
「人違いよ」
「そうなのか」
「でも、だとしたら何が言いたいの? それに」
「それに?」
「私たち、何か約束してたかしら?」
 マルコはいささかムッとする。今更そんな事を。

 それでもマルコは気持ちをぐっと押し込める。
「いや、ただ、本当の事を訊きたくて……」
 カレンはそれきり黙った。

 手に持ったアイスがドロドロと溶け始め、その一筋がカレンの白い手の指先に伝わって落ちた。
 マルコはハンカチを取り出し手渡す。
 カレンは不意に立ち上がり、
「行かなきゃ」と口にする。

 ハンカチで手の汚れを拭き取るとそれをマルコに返すとアイスまでも手渡す。
「要らなきゃ、捨てて」
 そう言い放つと、ワンピースの裾を翻して、通りを街の中心部に向かって駆け出して行った。

 渡されたアイスを手に持ったまま、マルコはカレンの走る方向を見ていた。
 石畳のずっと先の方、黒い人影が陽炎の様にゆらゆらと揺めき立った。その姿はミゲルの様でもあり、また違っても見えた。

 強い陽射しの下でアイスクリームはどんどんと溶け始め、マルコの手はアイスで液状になった。それらは一雫づつゆっくりと石段の上に滴り落ちた。

 その光景はバラバラに繋いだフィルム映画の断片を観ているみたいにマルコの脳波を撹乱させた。
 意識は遠のき、両の目は焦点を失い、前頭葉がぐらぐらと溶け出してしまいそうになる。

 シャツもチノパンも白い靴もぐっしょりと汗に濡れて素肌にペタリと貼り付いて気持ち悪い、すでに元の色は失われつつあった。
 
 マルコは側に置いた自分の革製のバッグを手に持ち、立ち上がった。

 そして、街の中心部へ向けてゆっくりと歩き出す。相変わらず太陽の陽射しがギラギラと照り付け、背中が燃える様に熱い。

 そうだ暑くなれ、そうなれば何もかも太陽のせいにしてしまえる。ドロドロに溶けた扁桃体はもう元には戻らない。

 全ては夏の太陽のせいだ。

 マルコはバッグの中に手を入れた。鉛色のズッシリとした重い物がそこにある。その塊に指をかけ、片手で強く握り締める。

 額から汗が一筋、頬を伝って流れ落ちて、石畳に黒いシミをひとつ作った。

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