往復note(10):自然から芸術へのインスピレーションについてへの返答


https://note.com/grasspanda/n/n7419c179ba05

Kさんこんにちは。

言いよどむことについての返信ありがとうございます。全てを言い表せないじんわりした何か、それを遮らないよう言葉にしないまま受け取る、みたいなことができる場所って国内外沢山ありますね。豊島美術館が徒歩圏内にあればいいのに、、、ってよく思います(笑)。

さて、Tさんへの質問ですが、しばらく前にTさんは虫取りをされ、また先日は海岸で貝拾いをされたりしています。上の話にも繋がるのですが、自然が作り出したものは、どうやっても作れないようなものがあります、そしてそれは芸術へのインスピレーションともなるのではと思うのですが、それが芸術家にとってどういう形で影響を与えたりしているのでしょうか、例えば制作にどのような形で反映されたりするんだろうかということに興味があります。Tさんは、自然と芸術の関係についてどういう風に考えているか聞かせて下さい。

今回の質問に対して、恩師の設楽先生から「詩のように絵を描きなさい」と言われた話から始めます。絵が描けなくなってしまった私にくださった言葉です。詩のように描くとは、どういうことなのか。恥ずかしながら、私は詩というものが得意ではありませんでした。俳句なんかは好きなんだけど、詩はどう読んだらいいのかがわからない。とりあえず目についた詩を図書館で読み漁って保留させていました。

言葉や知識に囚われて心がカッチカチになってしまっていることに問題意識を抱いていた私は、詩について保留させている間に虫取り網を持って山に行きました。それがすごくよかった!虫取り網を構えて虫の世界に自分から関係しにいくことで虫たちの生きている世界を見ることができたのです。素早い虫の、毒を持つ虫の、擬態する虫の環世界がかれらを主役としてすぐそこにある。人間の環世界は世界のたった隅っこでしかなかった!

そうして虫取りを何度か繰り返した後、また詩の世界に私は戻りました。今度の宮澤賢治全集は、開いてすぐに電流が走りました。三島高校の蔵書整理でテイクフリーになっていた宮澤賢治全集を(なんかありそう)と思ってゴソゴソ持ち帰っていた高校生の自分のカンの良さにはつくづく感心するばかり。宮澤賢治の「春と修羅」の冒頭を引用します。

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『春と修羅』

わたくしといふ現象は

假定された有機交流電燈の

ひとつの青い照明です

(あらゆる透明な幽霊の複合體)

風景やみんなといっしょに

せはしくせはしく明滅しながら

いかにもたしかにともりつづける

因果交流電燈の

ひとつの青い照明です

(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

―宮澤賢治全集2 筑摩書房

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宮澤賢治の詩には詩の環世界の手触りがあることに気づきました。詩の中に描かれた自然は人間が安心して過ごすためにひかれた一直線の地平線の束縛からは自由に遊び、わたしも自然も全ては青い光の、星の明滅のような現象として描かれています。詩の中の自然は近景と遠景に分けられた描かれる対象ではなく、”わたくし”の心と同化する非遠近法的なものとして描かれているのです。宮澤賢治はつづいて、「これらの記録されたけしきは自身のありのままの心象スケッチであるのだからある程度は同じ宇宙に存在する者たちは共感してくれるだろう」という旨を序章で述べています。

(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに

みんなおのおののなかのすべてですから)

虫の、木の、貝のそれぞれの環世界の存在を知った私には「みんなおのおののなかのすべてである」という事実は大変受け入れやすいものになっていました。そうでなくとも、自然に一度でも触れた感覚を覚えている人であれば詩の環世界は宮澤賢治の狙い通り読者と自然をひとつの青い照明として統合します。地平線と人間身体の器に自閉し縛られた人々の心を解きほぐし、人間の自意識と自然を改めて結びつける役割、、、じんわりと自由な心に触れる機会の提供を詩が担っているように感じられるのです。


人間の環世界が世界のたった隅っこであった通り、我々の身体も意識もあの雄大な自然と同一なのです。現代社会では何か業績を残したり「価値あるもの」を有形無形問わずいくら集められたかを競うようなところがあります。自然との距離が離れ人間の自意識だけが先行する生活を余儀なくされたヒトにとって、本来すでに手にしていたはずの雄大さがかき集めなければならないものになってしまっているようです。そういったところからでも、詩の中であれば「自然が作り出した、どうやっても作れないようなもの」と私は同じ青い照明である事実に我々はただちに身をゆだねることができます。

現代社会の中で、改めて宮澤賢治の詩のように分けられてしまった自然と人間が同一のものとして再確認させる作品を私は私のために作られたらどんなによいか。合理性と効率のために心の遊びを制御下に置くなんてうんざりしてしまうから、不安定で、不可思議で、見えないものであふれた世界に遊びにいく瞬間を常に心に置いておきたいと思うのです。自然は芸術にとって人間の可能性を見守る隣人なのです。設楽先生の「詩のように描きなさい」という言葉を、今の私はそんな風にとらえてみようと思います。


さて、Kさんに質問です。今回の往復noteは記念すべき10回目です。そしてあと2回のnoteで年明けになります。そこでちょっと、今年の振り返りと来年の抱負をnoteで聞いてみようかなと思います(笑)。作品を売ること以外でもアーティストが生活できるシステム作りについて、来年はどのように動いていこうと考えておられるのかよければ教えてください。あっという間に師走、東内はうちふるえております。

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