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疑念と信頼の話

思えば疑うことばかりしてきた人生であったが、疑えば疑うほど、「どんな疑念をかけても動かないもの」「そもそも疑ってはならないもの」がこの世にはありふれているという事実が浮き彫りになってくる。

 大学に通えば誰しも、一時的にとはいえ学者の端くれとして研究に勤しむことになる。大学で研究活動をしたことがある皆さんならわかるだろうが、まず前提としての知識を叩き込まないことには初歩的な論文すら読めたもんじゃなく、それはもう「あいうえお」を知らないことと同義なのである。知識というのは、先人が連綿と積み上げてきた「これはこれということにします」の集合体であり、それを疑ってしまっては会話すらままならなくなってしまう。

アリはアリだし、1+1は2だし、往来で服を脱いではならず、ネコチャンを撫ですぎると噛まれる。
目に付いたものを片端から疑ってかかる職業である学者の間ですら「暗黙の了解」が存在する時点で、「疑う」という行為が闇雲であってはならないという示唆があるような気がする。全てのものに説明が必要だとしたら、「味噌汁」という単語すら「鰹節を煮出した汁に具材を入れて火を通し、味噌で味を調えた料理」という長めのフレーズになってしまうし、そんなもんいちいち書いていられない。学者が専門用語を使うのはかっこつけたいからじゃない、文章を簡潔にしたいからだ。

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