「恨んでいいよ」と父から言われたあの日。10年経ってお返事するよ。
「お父さんのこと、恨んでくれていいよ。」
18歳になったばかりの私に、父がそう言った。
2008年春、日曜日の昼下がり、自宅で子ども3人集められて父から離婚の話を聞いていたときのことだ。
そのとき隣で弟は泣きじゃくっていたけれど、私は表情一つ変えず、ただそこにいた。
それから10年以上の月日が流れ、今。
父のことが好きだと自信をもって言える。
誰が見ても仲がいい父娘。
今まで、いろんなことを言われてきた。
お父さんのこと恨もうと思わなかったの?どうして縁切らなかったの?あんたの父親は何を考えていたのかね?
ただ、私はそう感じてないよ、ってことをここに書き残しておこうと思う。
今に至るまでの約10年間の父と私の軌跡。
私の知っている父
「お母さん、離婚する。」
母からそう言われたのは、大学入試の二次試験を終えた帰りの新幹線の中でのことだった。
高校の卒業式の3日前。
「ふ〜ん。あ、そう。」私の返事はいつもと変わらずそっけないものだったが、このとき車内の色が消え、音が聴こえなくなり、見ていた光景がフリーズした。
離婚というものをはじめてリアルに感じられた瞬間だった。
それから1週間後、兄弟3人集まって父から話を聞いた。中学生の弟はすでに母から話を聞いていた。小学生の弟はこのときが初めてだ。
「お父さんとお母さんは一緒に住めなくなった。」
小学生の弟はこれを知るだけで大泣きだ。「なんでダメなの?どうしてダメなの?どうして・・?」ワンワン泣く。
全身ずぶ濡れになるほど泣きじゃくっている弟にも、父は「どうしてもダメだ」と一点張り。
父が、今お付き合いをしている人と結婚するから離婚する、ということだった。
18年間住んできた「実家」には、新しい奥さんを迎え、母と子ども3人を外に出したいという意図だった。
もちろん私もこのとき理由を初めて知った。
でも物分かりのいい私は、子どもは母と住むんだなと当たり前のように捉えていた。父から見れば、"新婚生活"に子どもは邪魔になる。
私と上の弟は反論せず話を聞いている最中、下の弟は息ができなくなるまで泣いている。
そんなときに、「お父さんのこと、恨んでくれていいよ。」と面と向かって父が言ってきた。
何も答えられず、ただ黙っていた。そのときは、怒りも悲しみも驚きも絶望もなかった。
私の中にあったのは、理解の範疇を超えた可笑しな感触だけだった。
父はとにかく優しい人だった。
昔から子どもと一緒になって遊んでくれるし、記憶している限り、一度たりとも怒られたことがない。高校生になってからも何も変わらず会話を交わしていた。
母から離婚宣言をされ、父から宣言されるまでの"空白の1週間"ですら、父はいつもの優しい父だった。
だから、恨むという言葉が、父の口から出たとき訳がわからなかった。
はじめて聞いたことば。しかも自宅で父から聞くとは。
「恨む」という意味は知っているけれど、そんな感情になったことがないから「恨む」を表現できない。
どうしてわざわざ恨まなきゃいけないのか。
私が知っている父は優しくて、子どもとふざけ合うおもしろい人だったから。
宇宙からきた言葉を聞いてしまったようだ。
しかしこのセリフが、ずっと心に引っかかる忘れられないものになっていた。
心を無くす技術を身につけた
私たち子ども3人と母は、母の実家に住ませてもらうことになった。
春に実家を去ってから父とは連絡をとらなくなったが、夏になり電話があった。
「久しぶり!夏休みのうちにみんなで遊びに来なよ。あと、紹介したい人もいるから。」
あっけらかんとしている。
紹介したい人・・・。
一瞬心がどこかへ持っていかれそうだったが、すぐに返事をした。
「うん、わかった。みんなでいくよ。」
弟2人を引き連れて実家に行く約束をした。
浪人していたため、弟たちと共に母の実家にいた私は、唯一父と連絡がとれる人だった。
離婚後も両親間での様々なやりとりは私を媒介していた。女性問題、裁判関係、事務手続き、近所や世間の冷たい目、生活資金など、大人の事情をたった数ヶ月で今まで生きてきた年齢分知ってしまっていた。
そして、弟にとっても年に数回でも父に会える方がいいと思い、父から来たメールや電話は肯定的に受け応えていた。
連絡がとれた方がメリットがあった。
それは、弟のこともそうだし、金銭的支援もしてもらえるからだった。
父があまり好きではないから、なんとなく会う気にならないから、という理由より、金銭的支援がなくなるのは生きるのに困る。だから、自分のちっぽけな感情より、大きな自分たちの生活のために、父と繋がりを絶つことはしなかった。
それに繋がっていた方が「いい」気がした。それは事を波風立てず静かに収めるための手段だと本能的にわかっていた。
この頃から、徐々に自分の心を深く暗いところへ沈みこませていた。
数ヶ月ぶりに父と再会した。実家に帰ってきた。
父「さきちゃん、紹介するよ。俺の嫁さん、〇〇」
嫁「よろしくねー!」
一発目がこれか。
何がよろしくなのかわからないが、「よろしくお願いします」と明るめの声で言い、いつもの笑顔で対応した。
このとき、実家は無くなったと確信した。
私の帰る場所はない。
それと同時に、心も宇宙の彼方まで吹っ飛ばしてしまった瞬間でもあった。
深く暗い海の底に鍵を掛けて沈めた心なら、いつか見つけ出されることはあるかもしれない。けれど、宇宙にまで飛ばせば迷うことなく、自分をなくすことができる。
自分をなくすとは、相手に合わせること。
反抗しない、従う。
とてもラクだった。
初対面の奥さんに会って、目の前で仲良くしている父たちを見ても何も感じなかった。数ヶ月前まで実家だった場所が、中を開けると全く別のものになっていても哀しさも感じなかった。
神経は鈍感になり、夢か現実かわからない光景をただ見ていた。
自分をなくしてからは、父から連絡があれば返し、機嫌が損ねない受け答えをし、誕生日プレゼントが送られてきたら「ありがとう」のメールを丁寧にしていた。
「会おうよ」と連絡が来れば、弟を誘導し父の元へ行った。
父との会話や態度は、一緒に生活していたころとなんら変わらない。
どこからどう見ても、このときの私は明るかった。仲睦まじい父娘の姿だ。
その頃、新たな住居では、祖父母や親戚から「あんたの父親は最悪だ」「母と結婚したのが間違いだった」「バカ男」など、父親は言われ放題だった。
気づけば愚痴を聞く役回りまでになっていた。
弟たちは、精神的にやられ、不登校になったり暴力的になっていた。私も同じ感じだった。
それでも父から連絡があると、そんな姿は見せず、昔と変わらない様相で元実家に顔を出していた。
人生をリセットさせたはずなのに、父の影が現れる
地元には居場所がなく、大学進学とともに逃げるように東京へ行った。
それからも夏と冬には父から連絡があり、地元に帰っては弟たちと一緒に会っていた。
心をなくす技術に磨きがかかっていた。
父と一緒にごはんを食べ、好きなものを買ってもらえば喜び、父のお眼鏡にかなう行動を自然ととっていた。本心から楽しいかのように。
毎月4万の養育費は大学卒業までもらえることになっていたため、振込が確認されると即座にありがとうのメールを送信。
父に会いたいから、話したいからではなく、全ては繋がりを絶たないため。
自分の気持ちより生きる方を優先。
数年間は、この技術で上手くいっていた。
暇をつくると、心が戻ってきてしまいそうなので、とにかく忙しく動いた。言い換えれば生活は充実していた。それでも、宇宙に放り投げたはずの心が地球に戻ってくるときがある。
年末が近づくと、「実家帰らないの?お父さんやお母さん寂しいって言わない?」と友だちが言う。
「娘が一人で東京出てきて、お父さん心配してると思うよ。」と、バイト先の居酒屋のお客さんは言う。
寂しい??心配??
そんなもの、あの人がするかよ。
ふとした会話から、ないはずの心が締め付けられそうに幾度もなっていた。
大学生のときは、アクティブに動き回っている自分とは別に、もう一人の自分が常に付き纏っていた。
「こんなに動き回っているのは、何かに飲み込まれないようにするためではないのか」と。
そう言っている気がした。
何かを恐れていた。
あるときには、普段は吸いもしないタバコを吸ったり
あるときには、交友関係が派手だった。特に恋愛のような遊びは心をラクにさせてくれた。
またあるときは、勉強ができる優等生になったり、趣味のフルートを極めたり、イベント運営にかかわるほどいわゆる"意識高い系"になってみたり。
ごちゃ混ぜの心が混在しているだけでなく、顕在化する自分の行動までもがはちゃめちゃだった。
何かを感じ取っていながらも、気づいていないフリをし続けた。
でも、すでにこのとき、父の影が顔を出していた。
父と会って過呼吸になる
時が経ち、社会人になった。
父は関東で仕事をすることになったため、東京で会うことが多くなった。変わらず年に2度ほど連絡が入る。
「さきちゃん、元気にしてる?ごはんいこう!」
断りたかった。
でも、断る勇気がなかった。
「元気だよ!行こう!!」
ある日、新宿で会って父とごはんを食べた。
いつものように、営業スマイルと表面的なトークをし、数時間を過ごした。
ただ、何故父と会うのか、もうわからなくなっていた。
これまでは、生活に困らないように繋ぎ止めておくためだった。社会人となった今では、自分で稼いでいるし父からお金ももらっていない。もらう必要もない。
だから、連絡が来ても会いたくはなかった。
身に付けた惰性で会っていただけだ。
父と会った日の夜、一人暮らしの家に帰ってきて営業スマイルを脱ぎ捨て、素の自分に戻った。
するといきなり過呼吸に襲われた。
息ができない、苦しい・・・。
救急車を呼ぼうか迷ったが、なんとか症状は治まった。
これは三度目だった。
社会人1,2年目の当時、父と会った日には息苦しくなるという現象が何度か起きていた。ずっと誤魔化してきていたが、ついに身体が許してくれなくなった。
最も恐れていたものと向き合わざるを得なくなった。
裸の心で父を見つめる勇気
派手な交友関係、気持ちの浮き沈みの激しさ、そして父の影響による過呼吸。
大学生から社会人になったばかりの間、自分で自分がおかしいなと感じ取り始めてから本を読み漁っていた。
家族のこと、親子関係、母親と子ども、父親と子ども。なんちゃら機能障害。愛着障害。なんちゃら依存症。
多くの本を読み、早い段階で原因はわかっていた。
私が今までしてきた行動や、父に対する態度などは全てそれが根幹にあった。
ほんとはそんなのずっと前から知っていた。
だけど、向き合うと自分が粉々に砕けてしまいそうだから目を逸らしていた。
自分の気持ちを認めてしまうのが怖かった。
宇宙に投げてさよならしたはずの心。それが7年の歳月を経て、25歳になったとき、戻ってきた。
父に愛されたかった。
本音が出て、それを認めた。
たった一人、部屋にこもって。
何年ものあいだ、認めるという行為が一度たりともできなかった。
「愛されていないと感じている」という事実をずっと受け入れられなかったから。
愛されていないかもしれないことを恐れて、25年間表面的な付き合いをしてきた。
父は優しく、おもしろい。
でもそれは、私の本心から言っていたのだろうか。
父から怒られたことが一度もないのは、表面的な付き合いをしてきたからではないか。心をなくし、父に合わせていればラクだ。
でもこれをずっとやっていくには、自らの身体をすり減らし、誤魔化し続けて生きていかなければならない。
そんなことはもう出来なかった。
素直な気持ちを認めて、感情を吐き出し、主張していか
ないと、自分がいなくなってしまう。
「つらかった。」
たったそれだけのことを吐いた。
離婚宣告から7年が経っていた。
感情を表すの遅すぎだよ。相変わらずバカだな、呆れるよ。
でもそれから、父に対する私の姿勢は清々しいほどまでに変わっていった。
父親のSさん
父から愛されたかった、と誰にも言わずにさらけ出してから、心は正常な機能を保ち始めた。
父に直接言ったわけではないけれど
それでも、素直な気持ちを出したことで、理解し難いことも多い父をスルッと肯定的に受け入れられるようになっていた。
父が私を愛しているかなんて、答えはどちらでもいい。大切なのは、「自分がどう感じて、どうしたいか」だから。
私にとっての関係性が父であるだけで、たまたま出逢った「Sさん」を信じることに決めた。
父親でもある、Sさんを信じている。
恨むとか仕返ししてやろうという気持ちをもつことって、大変だと思う。私は敵ではなくて味方を増やしたい。近くにいる人は暗い人より明るい人がいいし、冷たい空気よりあたたかい空気が流れているほうがいい。
私はいつでも楽しくて幸せだから、周りの人は幸せであってほしい。
この10年間、外野は勝手にあれこれと口を出してきた。けれど、彼らは私とSさんの間に起こった出来事なんて何も知らない。ここに書いたことだって、起こったイベントの0.1%にも満たないからね。
どんなことも、多くの人には表面しか見えない。当事者にしかみえないことがそこにはある。
自分が見て感じて信じたものだけをたよりに、判断していく。そうすると、おもしろいほど自分好みの人や現象が目の前に現れてくる。
言葉から推測したり、ちょっと見聞きした情報から好き勝手に言われては困る。
だから、父のことを悪く言われたとき、いつも心の中で言い返してる。
「私の父親、ちょっぴりおバカで少し頭よくて、最高なんだよね!」と。
父はやっぱり、優しくおもしろい。
具体的にどんな人かって??
私がフルートを吹くと、それに合わせて音痴でノリノリで歌う。
老若男女誰とでもすぐに仲良くなる。真冬に汗だくになったと言って何事かと思ったら、近所の知らない子どもと大きな雪だるまを作ってた。
こけるフリ(転ぶ真似、つまり転ばない)を子どもに伝授させる。父はこけるフリが上手い。
身体の9割は冗談でできている。父と話すと笑いが止まらない。
そんなひと。
「恨んでくれていいよ。」
あのとき、何も返事をしなかったけれど
今だったら私はこう答えるだろう。
「はぁ?何言ってんの!?恨むわけないじゃん。だってお父さん最高じゃん!!!」
って。
好きな四字熟語は「自画自賛」です。