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切ない立場

やまびこが返ってこない

私には密かに心がけてることがある。
それは家族や友人や仲間が放った『○○してみたい』という言葉を極力否定をせずに、
『良いやん!やってみたら?楽しそうやん』と
肯定するようにしていること。
『心細いから一緒にして欲しい』と言われたら一緒にするし、『着いてきて欲しい』と言われたら体力とスケジュールか許す限り着いていく。
もちろんこの私の言動には私なりの見返りが含まれていて、私自身に挑戦したいことが出来たときには、同じように背中を押して欲しいと思っている。
だから私も、あまりに危険だとか無謀だとかでない限り、誰かの挑戦したい気持ちに応えて背中を押して応援したいと思ってきた。
付け加えて私には持病があるから、思い立ったが吉日とまでは言わないにしても『やりたい!』って思った時にやっておかないと後悔するかもしれないという思考は常にある。だからこそ初動を大事にしたい、いつでもない『今』やりたいことを大事にしたいと思う。

なんだけれども、まぁ元々の家庭環境的にも母からは『女の子なんだから』という言葉をよく言われていて、それが病人になってからは『病気があるんだから』になって、結婚してから『主婦やっとけばいいんだから』といった具合でいつでもなんだかんだと理由をつけては、何もせず波風たてず家にいるように勧められる。
しかしこれは別に母に限ったことではない。
主人に車の免許を取ってみたいと言えば冗談っぽく『そのお金は誰が出すの?』と言われたり、仲間と一緒に少しハードな運動をしたら、私が『もっと頑張りたい』と言っても『ここまでで良いんじゃない?無理をするのはやめとこうよ』と止められてしまう。
自分が病人であること、障害者であることは私自身が十分に理解している。
私の限界は私が1番よく分かっているし、中止する決断力だって私にはある。
まだまだ出来る、もっと頑張りたい!って思っている時に『そんなに頑張らなくて良いじゃない』と言われることが実はとても尊厳を踏みにじられているような気持ちになることに中々気付いて貰えない。なんなら私が自分のこと客観視出来ていないから使命感で『止めてあげなきゃいけない』と思われているようにも感じ取れてしまう。

私自身が言われたいからこそ、かけてきた言葉

やりたいことは、後悔しないように全部やろう

これが私には返ってこない。
他人は鏡だと思ってきた。私の言動の善し悪しは、他人が私にする言動として返ってくるもんだとおもっていた。

最近、やっと雇ってもらえるところをみつけて研修を受けているのだけれど、母に最初にこのことを伝えると『コロナも気になるのに電車に乗って出勤なんて危なすぎる、やめた方がいい』と言われ、それでも働くことに楽しさを感じている私は『もっと働きたい!』と思い始めている。
今は体調を鑑みて週1日4時間の超時短勤務でお願いしているけれど、家でひたすら引きこもっていた時より、誰かと会えて話して僅かながらでも社会の役に立てているかもしれないと思える今は嬉しい気持ちでいっぱいになる。
たださすがに月に24時間程度の勤務だとお小遣いぐらいにしかならないし、欲も出てきて『もっと働きたい』と思うようになってきた。
違うアルバイトも探してみようかと色々と見て回るけれど、ここでもやっぱり思うようにはいかない。
『いや、掛け持ちは無理でしょ』と否定の言葉が返ってくる。
やることなすこと、NOを突きつけられる回数だけモチベーションが下がっていく。
私ってそんなにダメなんだ、私ってそんなに社会に必要とされていないんだ、社会に私の居場所ってないのかな……。

いつだって、誰かの背中を押して応援してきたつもりだった。
でも、いざ自分が行動を起こそうとするとリスク回避ばかりを気にされて、結局私はいつもだれかの応援団どまりになってしまう。
みんな自分の好きなことをやっていているのに、私に求められていることはただの応援団なんだと思うと切なくなる。

もちろん、私の体を気遣ってくれているからだと頭では理解しているけれど、気持ちが納得出来ない。

私の出来るを、やりたいを、
勝手に出来ないことにしないで欲しい。
こんな気持ちを中学生の頃から抱いたまま、この歳まできてしまった。
こんなので、この気持ちを理解してもらえる日は来るんだろうか。
それとも、私はずっと自分のやりたいことは二の次で応援団のままい続けなければならないんだろうか。
病人/障害者になってからの立場はなかなかに切ない。

白血病の私はコロナや特発性大腿骨頭壊死症などで働くことが難しいのが現状です。頂いたサポートは医療費や生活費として大事に使わせて頂きます。私の経験がお役にたてば、応援して頂けると幸いです😌