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問題の先に、美しさを求めたとき

なにかに一生懸命とり組んでいるとき。その必死さの先に、 “美しさ” を求められるようになったとき、その道が拓けるように思う。

ひとつ次元のちがう所に立てて、目標が一段階、下のところにあって、美しい空を飛びながら街を見下ろすように、目標を見上げるのではなく、目標を俯瞰できるように思う。

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出典 『魔女の宅急便』(C)1989 角野栄子・二馬力・GN 
http://www.cinemacafe.net/article/img/2016/01/22/37261/198292.html


これまでの経験でたとえると、大学の受験勉強をしていたときに、「問題をただ解く」ことだけを考えていたとき、あまりのびなかった。

英語の訳をするときに、ただ下線部を、単語帳にあった言葉を並べて訳すのではなくて、文全体を最後まで読んでから、もういちど最初に立ちかえって、その文全体にあった美しい単語を、自分のすべての日本語の中から選びながら訳したとき、はじめて、訳らしい訳になった。(とくに京大の英語は、いつもそうしないと解けなくて、逆に、下線部の語彙が、文全体を通じてピンとあるものに繋がっていくのが楽しかった。) 

夏目漱石が「I love you.」を日本人にそぐうように「月が綺麗ですね」と訳したように、各場面にそぐうような、美しい日本語を選びながら和訳することを知ったとき、なにかひとつ、壁をのりこえられた気がした。
(それまで、壁というのが、なにかわからなかったけれど、壁の向こう側に立つことで、はじめて壁が見えた。)

いま、日常で、目の前になにかやるべきことがあったり、なにか問題に直面したりしているとき。そのやるべきことや問題の先に「美しさ」を求めると、それらを、撫でるように、磨くように、行えるように思う。


書類を書くときでも、ただ書いて出来上がりではなくて、そこから、磨き、美しいものにする。

作業する時でも、ただするのではなくて、なにか技術的な美しさを求める。

私は化学者なのだけれど、恩師はたびたび、(分子の)構造が美しい、と言っていた。それから、恩師の考え方は、極めて理論的なのだけれど、概念はどこか、美しかったりもした。

美しさを求める、というのは、プラスアルファの努力をする、ということなのかもしれない。

でも、プラスアルファ、というと、なにかちょっと、重荷に感じてしまったり、目標の延長線、みたいなイメージを持ってしまったりする。だから、美しさを求める、と言った方が、すっきりと整頓された気持ちで、ちがった視点から行えるように思う。


育休から復帰して、以前、ひとりで自由気ままに仕事ばかりに打ち込んでいたときに比べたら、いま、私が仕事に使える時間は、その頃に比べて 40% とか、それよりもっと少ないぐらいになった。(なのに、仕事は増えている。)

以前も、自分なりに、最大限のちからで仕事をしていたのだから、どうしたって、時間が減れば、できる仕事量も減る。
それは、物理的にあたりまえで、しかたがないことだ。

だからいま、以前と同じ 100%の仕事量をやろうとすると、できばえは必然的に 40%とか、中途半端になってしまう。

だから、こなせる量がいっしょなら、100%の仕事量を 40%でやるのではなくて、40%の仕事量を、100%の出来ばえでやりたいな、と思う。
そしてできることなら、40%の仕事量を、120%、200%の完成度でやりたくて、そして、ほんとうは、美しさを追求した、どこかちがう次元の完成度でやってみたい。



目標としているところから、“美しさ” というさらなる上を見据えると、目標としているところと、美しさとの間に、遊びの振れ幅をもつことができる。
その遊びの振れ幅は、必死さを超えた余裕であって、なにか物事に、魅力を与える部分であるように感じている。

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