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雨上がりの七月, 出逢って十年

十年前の 7 月、夫と出逢った。
あの日の朝、そんなこと、これっぽっちも知らずに。

いつか言葉にしてみたかった出逢った日のこと。
10 年間心の中で、味わっては、しまい、としていたきらめき。


大学の研究所の夏祭りだった。

朝からしとしと雨が降っていて、大学院生だった私と、その他いくつかの研究室のメンバーは、一大イベントの幹事にあたっていた。

ビアガーデンのような夏祭り。
会場は毎年、研究所の食堂と、隣接する中庭。中庭の芝生にはビールサーバー車もやってくる。


その日はあいにく朝から雨で、絶え間なく雨粒が会場の芝生を濡らしていた。
当時いろいろと行き詰っていた私は、しばらく自分は一人でいいや、研究だけに没頭する、そう決めていた矢先で、空もそんなふうに重く、それでいてその奥に希望を見出すような淡い灰色をしていた。



夏祭りが始まる夕刻も、雨が降るか降らないかのせめぎ合いの予報。なんとか屋外でできる可能性を粘ろうと、午前中からぎりぎりの所で準備していた。



研究所のはるか向こうの、すみっこに位置する倉庫から、山積みの長机とパイプ椅子を運び出してくる。

草薮にまみれた古びた倉庫。
2 人で運べる長机も、今日は傘係がついて 4 人がかりで運ぶ。



泥くさい夏の草むら。
雨でぬかるんだ土。



草も湿気も私も、夏を生きている。



ただ目の前の作業に徹していた。



昼もとおにまわった頃、ようやく作業がひと段落し自分の研究室に戻った。見ると、デスクに巨大な段ボール箱が置いてあった。
この日は研究室のはじめてのオリジナルTシャツが届く日でもあった。この日に間に合うよう研究室メンバーがデザインしたのだ。

段ボール箱を開けてみると、ビビッドな青色のTシャツがたくさん。研究室メンバーの大半が男性で、表面には研究室のロゴと、背面には大きく黄色い「酒」の文字。あまり気に入らなかった。


見ると時計は 15 時半。まだ間に合う。

さっと研究所をひとぬけし、下宿までの谷のように急な下り坂を、風と共に一気に滑り下り、狭い下宿の戸棚の奥から裁縫箱を取り出してきて、Tシャツをデコった。

酒Tシャツに、ひらひらのレース。よし。

また来た坂道を駆け上ぼり息を切らしながら研究室に戻ると、もう研究室には人がまばらで、いまにも乾杯の時間だった。





かわいくなったTシャツを着ながら急いで会場に向かうと、午前中のだだっ広い会場とはうって変わって、もう食堂は人がいっぱいで、教授も学生もごちゃ混ぜになって、乾杯の前からすでに盛り上がっていた。

食堂に入りきらない人たちがそこらへんに溢れ、私も通路に溢れて人混みに揉まれていると、同じく通路にいた同じ酒Tシャツの仲間を見つけた。




奇跡的に雨も上がって、うっすら紫色の夕焼け空が、雲の間からのぞいていた。


乾杯〜!会場の奥から、潔い乾杯の音頭が聞こえてきた。
乾杯の波が、見えない中央部からこちらにも渡ってくる。乾杯!



始まった。
今年の夏の祝杯。


がやがやとしてよく聞こえない乾杯の挨拶が終わると、人が外のビアガーデンの方へはけていった。食堂のもっと中の方には、早くから私たちの研究室のテーブルを陣取ってくれていたメンバーが見えた。

そこでいつものように、研究の話とか面白い話にのめりこんだ。



♢♢


ふっと視線を周りにうつすと、いつの間にか随分時間が経っていたようで、もう食堂のテーブルの上の食べ物はほとんどなくなって、外はとっぷり日が沈んでいた。
暗くなった屋外では皆、夜のビアガーデンで楽しんでいる。

ちょうちんの橙色の灯りが、きれいだった。




だれかいるかな。中庭を見わたすと、遠くの方に高い背の陰が見えた。ひときわ頭ひとつぬけているから、暗い陰だけで同期の友人とすぐにわかった。

行くと、友人は 5 人ほどで輪をつくって楽しそうにしゃべっている。
私もビール片手に輪の中に入る。溶け込むように、輪に入れてもらう。……




 …! 

 家族だ




隣に立っている人が、家族だった。
ちゃんと見ていないけれど、でも
すでに家族として、ふたりで、その輪の中に、立っていた。




 家族だ



自分の血が、とくとくと音を立てて流れるのを感じた。


日が沈んで、盛り上がっている人々とか橙色のちょうちんとかが視界の背景にぼんやりと映るなか、
全身がぶるぶるっと身震いして、私の過去も未来もぜんぶつながって、
手の先から足の先まで全身をめぐる毛細血管の、この血の家系図をたどれば、この人とぜったい祖先もこれからの人生もつながっている、と感じた。
ビールを片手にした自分の腕を、焦点の合わないまま見つめ、血の躍動を感じた。

自分の居場所はここだ、というすっぽりはまった落ち着いた安心感に身を浸らせながら、すごくトキめいているのに、どきどきは全然なくて、きらきらとした居心地のいい空間にいた。

周りのざわざわとか、輪の中の会話とかは、すべて夜の波の音のように遠くに引いて聞こえ、あるのは自分の浸っている感覚だけだった。

ときどき友人との会話でとなりの "家族" が「そうだね、いつかは子どもがほしいかなぁ」なんて答える会話を耳が勝手に拾いながら、そうなんだ、でも私はまだそんなふうに思ったことないな、とかぼんやり考えていた。
数人で喋っているけれど、ただふたりで、すでに家族として、そこに立っていた。

こんなに人混みだけれど、はなれても、絶対にはなれないという確信があった。もうすでに家族だから、連絡先を交換しようとも思わなかった。





我に帰ると、輪にいた人たちは酔った足でどこかに行ってしまって、私と"家族"だけになっていた。
「ちょっとビール汲んでくるね」
そう言って、家族はビールサーバー車の方に行った。



私ひとりになった。

ふぅ〜、と、すこし離れた芝生のパイプ椅子にすわった。


しばらくすると、ビールをたぷたぷと汲んだ家族が、キョロキョロと辺りを見渡し、私のもとに戻ってきた。
「スイカ食べた?おいしいよ」
ほぼほぼ食べ散らかされた長机の上には、デザートのスイカがみずみずしく乗っていた。私はあむっとほおばった。

「おいしい」



ひとことふたこと話し始めたとき、「そろそろ、片付けです〜」のアナウンスが。
20 時だ、片付けだ!私は幹事。やらなきゃ。

会場にいた人全員で、ざざぁっと片付けを始めた。なんとなくきれいになったところで周りが、さぁ二次会だ〜、と思い思いの研究室に散っていくなか、
私は幹事だから、会場から誰もいなくなって、隅々がすっきりして、もう拭くものもなんにもなくなるまで、長机を拭いた。



きれいになった。



ぽっかりと広くなった静かな会場には、ほかの幹事がぽつぽつといるだけで、あとは綺麗にまとめられたゴミ袋と、広い芝生だけが残っていた。

これでオーケーかな。私もどこか行こう。
ひとりで、暗い砂利道を戻りかけた。


 ……!





ふりかえると、駆けよってくる人がいた。
家族だった。


どうやら今の今まで、家族もどこかで片付けしていたようだ。暗闇でも目立つ私の背中の「酒」の字を見て、追いついてくれたようだ。

さっきまでのごった返した片付けのなか、初めて会った運命であるはずの人とはぐれて、そもそもばらばらになっていた事すら忘れていて、なんの執着もなく、幹事の仕事をしていた。おたがいに。


「…これからどこの研究室行く?」
なにも考えていなかった。
「…決めてない。けど、みんな、いつも行く研究室は、あそこか、あそこかなぁ。」
「それじゃぁ、僕の研究室に来ない?」
「行く。」


「僕の研究室」も、いつもみんなが集まる研究室のひとつで、行くとやっぱり、何人かがすでにいた。

まだ二次会の用意は整っていなくて、バタバタと研究室の冷蔵庫から、常備してあるビールやらお酒やらを掘り出して、教授室横の茶飲み場におつまみとかを並べている最中だった。


ふ〜、とまた一息、そばにあった椅子に座った。

「連絡先、聞いてもいい?」

あ、いま私、ケータイ持ってないの。
私いつも、ケータイをケータイしてないんだ。

そう笑って、すぐ横にあったホワイトボードにメールアドレスを書いた。

「すぐに消してね」

それからいつもの二次会のように「僕の研究室」におじゃまして、夜を明かした。

家も下宿だから、終電もない。
深夜 4 時頃になって、明るくなりかける手前の変な真夜中のなか、だんだん周りも力果てて静かになってきて、最後まで残っていたそこらへんの人と帰ることになった。

また!
家族ともわかれ、下宿に帰った。


次の朝起きると、メールが届いていた。

「昨日はありがとう」

『こちらこそありがとう。楽しかったね。よかったら、また遊ぼう』
絵文字もなにもなく、ただそれだけを打った。





それから 3 年半、私たちは結婚した。

♢♢

夫と出逢った、ということがなければ、なんでもない夏の一日。なのに、出逢う前後のことまで、まるで今日まで毎日生きた日かのように事細かに覚えているから不思議だ。

あの日、ドキドキは全然なくて、なのに、全身でトキメいていたように、今日も、やっぱりドキドキはないけれど、夫にトキメいている。
何年経ってもときめきは失われない。そう思う。

あの日から暫くして後日、最初に驚いたのは、夫は私と同じアパートの、同じ一階の、しかも私の家のすぐ斜め前の部屋に住んでいたことだ。
ずっと 3 メートルの距離にいたんだ。ドアの覗き穴から見える所に。

それから遡ること 5 年間も、ふたりずっと所変われど常に、すぐ近くにいたことを知った。



いま、あの頃のふたりを俯瞰したら。引き合わせたくて仕方がない。

ほら、同じ研究所内で、同じように研究しているよ。
ほら、3 メートルの距離に、将来の家族が住んでいるよ。

逢いなよ。逢えるよ。


でもあの日のあの時まで出逢わなかったのは、おたがいが、そのときまで、それぞれのひとりの時間を必要としていたんだ、と思う。
出逢うその日のその時まで、おたがいが、じっとなにかをあたためていたんだ。




その前年も、翌年も、私は夏祭りに参加しなかった。
翌年はフランスに留学していたからで、前年の事はよく覚えていない。

でも、もし、あの年夫と出逢うと知っていたなら。


私は幹事じゃなくても、ぜったいに夏祭りに参加していた。
酒Tシャツなんかじゃなくて、もっとかわいい浴衣を着て。
テーブルの上のおつまみなんて目もくれず、人混みをかき分けまっしぐらに夫の姿を見つけ出す。
後片付けでは大理石を磨くぐらいにもっとピッカピカに長机を磨いて夫に良い所を見てもらい、よもや、はぐれるなんてことしないし、なんなら出逢った瞬間に自分から連絡先を聞きにいく。



…でもやっぱりそういうことじゃなくて、ありのままに、そのままに生きていれば、きっといいことあるよ、という事なのかな、と感じる。

あの頃、生きる道筋の立て方に、独りもがいていた自分にささやいてあげたい。

ほら、数年後、こんなに自分を認めてくれる素敵な人と出逢っているよ。
ほら、こんなにも幸せに過ごしているよ。
それに、ほら…ふたりの娘まで生まれているよ。

このまま誠実に生きていれば、大丈夫。


この 7 月。ちっちゃなふたりの娘たちと、蒸し暑いリビングで家族 4 つのスイカを囲んでいた。
ふと夫に聞いてみた。
「あの日、スイカあったの、覚えてる?」

「うん、覚えてるよ」 

ちょっと照れ笑いしながら即答してくれたその表情の奥には、たしかに、べつべつの視点から共有したあの日があった。


はにかむ夫の瞳に今日もまた、トキめいてしまった。


11 年目の夏の始まり。

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