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人を攻撃したくなる時、そこには 『なに』 があるのか

二週間前に起きた、テラスハウスに出演していた女性の死に関する痛ましいニュースや、誹謗中傷などの「人を傷つける行為」に対する世間の反応(特に「罪には罰を」という反応)を見てから、わたしの心はずっとザワついていました。なんとも言えない息苦しさや、悲しみ・悔しさがあったのです。

何が悲しくて、悔しかったのかと言うと
私たち人間は本当に、自分の感情の扱い方を知らない。特に「不快な感情」という、自分の内側にある『聞いてほしい真実の声』の扱い方を知らない。

自分の不快感を大切に扱ってあげることで、反射的に人を傷つけてしまう「痛みの連鎖」を止めることが出来るのに。私たちは本当に、そのことを知らないんだ。

そう思うと、「感情の扱い方」がまだまだ一般的ではなく、多くの痛みの連鎖を引き起こしていることが、とても悲しくて、悔しかったのです。

私たちは、

自分の体の外側で、いかにうまく生きるかは必死に学んできた。でも
自分の体の内側にいる自分と、どううまく生きるかは学んで来なかった。

子供から大人に成長する過程で、私たちの多くは、不快な感情を大切に扱うことをせずに「無かったこと」にしてきました。なぜなら、多くの人々にとって自分の不快感を表現することは、人を不快にしたり、人から拒絶される可能性を意味していたからです。人から拒絶されることや理解されないこと・孤独を感じることは、人間にとって大きな痛みになります。そして人間の脳は生存本能的に(生き延びるために)この痛みを回避しようとします。だから私たちは、「自分の中に不快な感情があること」自体を、タブー視して無かったことにしてしまうのです。

しかし、悲しみや怒りといった不快でネガティブな感情は、それ単体で存在することはあり得ません。不快な感情の裏側には、表裏一体でその人の「願い」が隠されています。願いが満たされないから悲しいし、悲しみのベクトルが外側(願いを満たしてくれると期待していた対象)に向いた時に怒りとなる。

本来感情は、本当の自分に繋がることが出来る、豊かなリソースであり創造的なエネルギーなのです。(感情=emotion=Energy for Motion=人を動かす(Motion)エネルギー(Energy))

つまり不快な感情とは、「自分が内側で望んでいること」と「外側(現実)で起きていること」のギャップを教えてくれる、あなただけのサインです。そしてこのサインは、あなたを幸せにするためにあります。

でも、私たちはそれを知らない。そして扱い方も知らない。だから、私たちは大切なサインを無視してしまい、自分が本当に望んでいることに気づくことが出来ない。結果として、自分が望んでいることを叶えられずに=幸せを感じられずに苦しむことになります。

幸せというのは、自分の心の状態が決める、極めて主観的なものです。世間一般的に言われる「こうなれば幸せになれる(いい会社に入れば幸せ、出世すれば幸せ、お金持ちになれば幸せ...ex)という幸せ論」は、目に見える物質的な豊かさを表す指標に過ぎず、心の状態ではありません。つまり、それだけを追いかけても幸せにはなれない。

私たち人間はそろそろ、自分の心の解像度を上げる必要がある。

そして心の解像度を上げるためには、感情という「心の状態のサイン」に気づく必要があるのです。自分の心の状態に気づけない人が、人の心の状態に『本当の意味で』気づけるはずもありません。

私は、「人の痛みに気づける人」は、「自分の痛みに気づける人」であり、「人の痛みに気づける社会」は、「自分の痛みに気づける人たちの集まり」であると感じています。

逆に言えば、「人の痛みに気づけずに、人を傷つけてしまう人」というのは、「自分の痛みに気づけない人」である可能性が高いのです。そして、実は「気づけない」というよりも「自分でも気づけなくなるぐらいに、感情を抑圧して鈍感にならざるを得なかった」という可能性があります。

私たちが生きる社会では、感情よりも思考優位であり、感情をより早く処理して(無かったことにして)冷静に思考し、周囲を不快にせずに喜ばせることが「優れている・正しい」とされてきたので、私たちは感情の処理能力を上げることを幼少期からプラクティスし続けています。その為、感情を抑圧して鈍感になってしまうのも無理はありません。

だからこそ、誹謗中傷を含め「人を傷つける人」に対面した時、その人がそれを繰り返さないように 私たちが出来ることは、

「罪(人を傷つける行為)には罰を」と罰することだけではなく

「なぜその罪は起きたのか?(=起こさざるを得なかったのか?)」

「その行為の背景には、どんな感情や願い・痛みがあったのか?」

という「罪(人を傷つける行為)には対話を」という根本解決の姿勢が大切であると感じています。

私は、誹謗中傷を通して、人の心を傷つけた人たちを擁護する気は全く有りませんが、彼らもまた過去の体験によって傷ついていて、自らを癒し守る過程で、感情の扱い方を知らずに無意識に人を傷つけている可能性があると感じています。(だからと言って擁護する気は有りません)

彼らが、自分の痛みや心の不快感を大切に扱うことが出来ていたら、人を傷つける行為には繋がらなかったのかもしれない。

自分の痛みや願いに無自覚なまま、人や自分を傷つける人が減るように祈って、このnoteを書きます。

「嫌いな人」や「攻撃したい人」の正体

私たちは、「嫌いな人」や「攻撃したい人」について「相手が悪いのだから、私に嫌われて・攻撃されて当然だ」と思い込んでいる節があります。しかしそうだとすると、人によって嫌いな人が違うのはなぜなのでしょうか。相手が悪いのであれば、全員が同じ人を嫌いそうなものですよね。

人によって違うその理由は「嫌いな人の正体は、自分が自分に対して抑圧している "許容出来ない面" を表現している人であり、人によって抑圧したり許容出来ない面が違うから、嫌いな人も違う」のです。

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私たち人間には、色々な顔(側面)がありますよね。一見相反するような顔も・矛盾する顔も、たくさん持ち合わせています。しかし、私たちはその顔の中から、「表現して良い自分(良いと思う自分=善)」と「表現してはいけない自分(ダメだと思う自分=悪)」に二元論で分け、表現してはいけない自分を無自覚に抑圧し続けます。

しかし、自分が抑圧している顔を表現している他者を見ると「私は表現することを許されていないのに、あなたが許されて良いはずが無い」「なぜあなたは、私が言いたくても言えなかったことを堂々と言うんだ。許せない」という無意識の怒りから、他者を嫌いになったり苦手意識を持ちます。

そして、「表現しないこと(=自分)」を正義、「表現すること(=相手)」を悪とジャッジして、相手を正そう・直そう・コントロールしようとする。そうして、避難したり攻撃したりするのです。(行動に出さなくても、頭の中ではうるさく避難する声が止まりません。頭の中で喋り続ける自分の声に、あなたも心当たりがあるのではないでしょうか)

結果として、苦手な人や嫌いな人を避難することで、自分に対しても頭の中で「自分がそれを表現することは、絶対に許さない」と囁き、自分に制限をかけ、縛っているのです。その制限と不自由さに、実は自分が苦しんでいるとも知らずにです。

なぜ「表現してはいけない自分」がいるのか

では、私たちは「表現してはいけない自分」を、なぜ・どのように創り上げてきたのでしょうか?

まず、そもそもなぜ「表現してはいけない自分」を無意識に創り上げるのかと言えば、それは「この社会で生き延びるため」つまり、人間にとっての生存戦略を意味します。

私たち人間は、生きていくために長期間社会の中で相互依存的な関わりを必要とする生き物です。例えば、人間は生まれてからすぐ、母親からの世話を受けないと生きていくことが出来ないですし、生殖・子育て・睡眠・消化など生物学的な行動を果たすためには、他者との相互依存による「安全」が必要になります。逆に言えば「他者から孤立する」ことは、人間にとってトラウマ的な出来事となり、生死に関わる問題であると神経系は判断します。つまり、生き延びる為に、防衛戦略として他者から孤立しないよう「表現してはいけない自分」を識別し抑圧するようになったのです

「表現してはいけない自分」は、幼少期〜大人になる過程で(特に幼少期に)、自分にとっての成功事例/失敗事例の体験から創られます。

「どんな態度を取っている時に、孤立したか/しそうになったか(=失敗事例だから、この態度は表現し続けてはいけない)」あるいは「どんな態度を取っている時に、人から大切にされたか/必要とされたか(=成功事例だから、この態度は表現し続ける)」という風に自分の表現は創られていきます。

特に、両親との関係の中で体験した成功/失敗事例は、強烈に無意識化に刻まれ、大人になってからも行動に影響を及ぼし続けます。理由はシンプルです。人が成長していく過程で、その人の安全や生死に一番影響を与え得るのが親だからです。中でも幼少期の体験は、生存本能に直結するため(幼いと1人では生きていけない=親に見放されると死んでしまう可能性があるから)、特に強烈に残りやすいのです。

そしてこの「自分にとっての失敗の体験(大小問わず、他者に拒絶されたり、孤立する体験)」こそが、「痛み」として残り続けるのですが、私たちの脳はその生存本能から「拒絶や孤立の痛みを、二度と味わいたくない=味わわないようにしろ」という指令を出すため、人間関係の中で何かしらの不快感や痛みを感じていたとしても、その痛みを極限まで麻痺させて、無意識に正当化したり(この痛みは成長の為に必要なものだった、とか)無かった(そんな痛みは感じていなかった)ことにしようとします。結果として、痛みは抑圧され続け、自分の感情に鈍感になるか、限界がきて爆発する(人や自分を傷つける)ことになるのです。私も鈍感になったり爆発したりを散々繰り返してきました。

私たちが不快な感情を、必死に麻痺させたり無かったことにする理由は、「それは、あってはいけないものだ」という強い信念(思い込み)を持っているからです。この信念は、親から子へ、子から孫へと引き継がれます。

「自分の不快な感情を大事にすることよりも、人を不快にさせないことを優先しろ」と親や社会に言われ続けて育つからです。しかし、自分の感情を大事にして来なかった結果、人の感情も「本当には」大事に出来ないという本末転倒なことが起こります。(「本当には」と書いたのは、それっぽく表面的に振る舞うことは可能であると言いたい為です。)

どういうことかと言うと、冒頭にも書いた通り、私たちは「不快な感情の裏側に、表裏一体で自分の願いがあること」を知りません。だから、自分の不快な感情の奥にある「本当はただ、こうして欲しかっただけなんだ」という願いに繋がることが出来ない訳です。

そしてそれと全く同じ要領で、私たちは人が表面的に見せている振る舞いの奥に、その人のどんな本当の願いや感情があるのか?を理解したり、共感したりすることが出来ません。相手の振る舞いを見た時に、「相手はこう感じてるはずだ」と自分のフィルターで勝手にジャッジして、良い/悪いの評価判断を下すのです。相手のことは、自分自身に対して使っているモノサシでしか評価出来ませんから、自分とは違うものを悪・同じものを善として、相手の意思に反して、勝手に敵や味方を創り上げてしまいます。

同意は出来ないが、理解は出来る

でも、自分自身が「自分の不快な感情を大切に扱ってあげる」と、「自分の行動と、本当の感情がちぐはぐである」ことにすぐに気づきます。

例えば、一緒に働いている同僚に対して「あいつは口が悪くて、嫌なやつだ」という不快な感情を抱いていたとします。その感情から、「その人には近寄らない。近寄ってきたら嫌な顔をする」という行動を取っていたとしましょう。

では、この不快な感情の裏にある願いは何でしょうか?「口が悪くて嫌なやつ」とジャッジした背景には、「自分に対して、自分を蔑むようなことを言ってきた(あるいは、人にそうしているのを見た)」という相手の行動があったとします。その時、自分は本当はどうして欲しかったのか?どうだったら良かったのか?と言うと、「自分や人を大切に扱って欲しかった。自分のことを勝手に判断して欲しくなかった。本当の自分を理解して欲しかった」という願いが隠れている可能性があります。つまり、本当は「相手に大切に扱われたい・理解されたい」と心の奥底では願いながらも、自分が相手を嫌悪感によって「雑に扱い・理解しない」ことで、真逆の行動を取っていたりするのです。

もし自分が何に悲しみ、何を願っているのかに気付ければ、「わたし、あなたがこう言ってるのを聞いて、自分が大切に扱われてない感じがして、悲しかったんだ。もしこういうことを伝えたいのであれば、こんな言い方をしてほしい」とリクエストすることが出来ます。また、「それを私に言った時、あなたにはどんな思いがあったの?」と聞くことも出来ます。そうやって、ただ反射的に対立したり攻撃したりするのではない、対話による一歩踏み込んだ相互理解を促せるのです。

「自分の行動と本当の願いは、ちぐはぐになることもある。だから、本当の願いは?と自分に問いかけることは大切だ」ということに気づくことが出来ると、人を見た時にも「この人、こんな振る舞いをしてるけど、本当には何を感じているんだろう?何を願っているんだろう?」と、その人の表面的な行動に流されず、真実の声に耳を傾けることが出来るようになります。それこそが、本当に人に共感するということなのです。

また、自分が不快感を感じてる理由を、私たちは簡単に「相手に問題がある」と決めつけますが、本当は、「自分の中にある願いや期待が、相手によって満たされなかった」ことに不快を感じているので、実は「自分の幸せを人に委ねている」という、自分の内側の問題だということに気づけるでしょう。

相手の振る舞いだけを見てしまうと、相手を理解することは出来ないかも知れません。「そんな振る舞いが出来てしまう神経が分からない」という気持ちは、誰にだってあります。でも、その振る舞いの下にある願いは、大抵の場合理解することが出来ます。なぜなら、人の願いというのは突き詰めていくと、誰もが持っている根源的な欲求に行き着くからです。その多くは「大切にされたい、理解されたい、認められたい、注目されたい、愛されたい、人と繋がっていたい、自分を表現したい=幸せになりたい」というものたちです。

自分の心の解像度を上げることで、結果的に人の心の解像度も上がります。そうして、私たちは本当の意味で人に優しくなれます。結果として、相手の表面的な行動だけをみて、その奥にある気持ちを理解せずに、相手を避難したり傷つけてしまうことも無くなっていくのです。これが「罪には罰を」だけでなく「罪には対話を」と言いたい理由です。

まずは、自分自身と対話をして、自分の中にある「聞いてほしい真実の声」を扱ってあげることが大切です。そのためにも、感情はとても役に立つ、あなただけのサインなのです。

私たちの人間観

私たちはいつから、「人の行動の背景には、心(感情)がある」ということを忘れてしまったのでしょうか?いつから、「相手のことを機械と同じように、直そう・正そうとしてもOK」と思い込んでしまったのでしょうか?ここには、人の持つ「人間観」が大きく影響しているように思います。

「人間観」とは、「人間のことを、どのような存在として観ているか」という見方のことです。

センセーショナルな言い方をしますが、私たちは自分も含めた人間のことを、機械やモノと同じように観ていることが多くあります

例えば自分の働く職場に、新しく新入社員が入ってきたところを想像してください。私たちは、彼・彼女に対して、どのように振る舞いますか?嫌な言い方をしますが、まず「性能」をジャッジしますよね。どれだけ使えるのか?どんな価値を出せるのか?スペックは?インターフェイスは?耐久性は?どれだけ役に立つ?そんな風に無意識にジャッジをします。

そして、価値が無ければ直そうとし、それでも難しければ他の人と入れ替えようとします。書いてみると実に不快ですが、これはモノに対しての振る舞いと全く同じです。あなたが新しいコップを買った時に、「使えるか見極める➡︎使えるなら使い倒す。使えないなら他と入れ替える」とやるのと、同じなのです。

そしてそのような人間観は、人に対して使うだけでなく、自分に対しても使います。つまり、自分自身に対して「私のスペックは?性能は十分?価値を出せてる?役に立ってる?使えないなら直さなきゃ。他人と入れ替えられる前に」と、自分という存在をモノのように扱うのです。

でも、自分が自分のことをモノのように扱う世界なんて、恐怖ですよね。値踏みされる恐怖に、いつも苦しんでいるし、悲しくて辛いのです。そんな恐怖や痛みを「無かったことにして、健気に頑張る」ことが、「心ある人間」にとって、どれだけ残酷なことをしているのか、そろそろ気づく時です。

そして、自分がやられたことを、私たちは他の人にもやってしまう傾向があります。「人間観」は伝染しますし、「人間観に基づく行動」も伝染します。人に誹謗中傷された人は、その痛みや悲しみを自分では扱うことが出来ずに、人に同じことをしてしまうことがあります。抑圧して我慢し続けるか(自分を自分で傷つけ続けるか)、我慢出来ずに暴発して人を傷つけるか、どちらかになってしまいやすいのです。

まずは、自分自身のことを「心ある存在」として扱ってあげましょう。自分の感情を鍵に、自分の願いを知り、自分や他者にリクエストして自分を満たしてあげるのです。そこから、本当の幸せが始まります。

最後に

私たちが生きる社会では「自己責任論」が強く根付いていることから、「努力を怠り、然るべき能力を身につけなかった」という意味で「人を傷つける人は弱い・劣っている」という論調が強く、そして「罰を与えて厳しくすれば(苦しい思いをさせれば)更生するはずだ」と考えられています。

しかし、現実はそんなにシンプルではありません。理由はこれまでお話してきた通りで、本人も自分がなぜそのような行動を取ってしまうのか?その背景にはどんな感情や願いがあるのかを、自分でも知らないのです。

ですから、これからは「傷つけた」人も「傷つけられた」人も、パラダイムシフトが必要になってきます。

「自分が人によって傷つけられた」と感じた時は、

「なぜ、私を傷つけるの?」という外側の相手に向かう問いから

「なぜ、何に、私は傷ついてるの?」という内側の自分に向かう問いへ進化させていきましょう。

そして「自分が人を傷つけた」と感じた時は、

「なぜ、自分はこの行動を取ったのか?背景にある感情は?願いは?」と、こちらも内側に問いを向けていくのです。

いずれにせよ、相手を避難する前に、自分の心が何に反応したのか・何が満たされずに不快感を感じているのかを理解することが先です。なぜならその不快感はあなただけのもので、他の人には分からないからです。

私たち人間には、優れた知性があります。きっと「問い」の方向を進化させられるはずです。相手との人間関係を、相手だけの問題や自分だけの問題と分離することなく、お互いの真実の声を聞き合えるようにしたいものです。

そして自分の感情を大切に扱うことが、この社会で当たり前の知的インフラになりますように。あなたの周りにもこの知恵が必要な方がいれば、ぜひシェアしてあげてください。

読んでいただき、ありがとうございました。

おわり!

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