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五月の耽溺

瑞々しい緑を読むと、頭の中に新緑がしみ渡る。
好きな漫画や小説に緑の描写が多いのは、この時期に浸るためかもしれない。

なかなか粋な楽しみ方だ。などと悦に入りつつ、洗濯が終わるまでの空き時間、乱雑な本棚を漁る。


年々、翠色が目を惹く本が増えている気がする。年季の入った愛読書もあれば、買った記憶が曖昧な本もかなりある。なかには本気で記憶にない本も。とはいえ、流石に本棚の中で勝手に増えている訳ではないだろう。時を重ねるごとに蔵書が降り積もるのは本好きのサガというもの。最も、去年から電子書籍に移りつつあるが。電子書籍はいい。充電さえされていれば、常に手早く読めて購入も手軽に出来る。本棚も圧迫しない。


けれども、手にできる本の魅力というものは抗いがたい。物質は、ただあるだけで強い力を持つ。読んだ記憶、経年による日焼け、手触り、紙とインクの匂い。最初は初々しい新芽だった本は、いつしか艶めく若葉に、重ねて読むことで私の記憶が凝った紅葉になり、最期は本棚に降り積もる落葉となる。


だというのに、ページをめくれば新しい驚きや味わいを与えてくれる。最初読んだ時は身に入らなかった本が、今は豊かに語りかける時、毎年見上げても新緑の美しさに驚くのと同じ感動を私は抱く。同じように、かつては響いたというのに今は響かない本もある。それも、いずれはまた鮮やかに映る日が巡るかもしれない。


本を読む度に、感想や感動は変わる。それは読む側である私が変化し続けているからだが、その事実を受け入れれたのは最近な気がする。歳を取るということ、感覚や考えが変わるということ、他者と関わるということ。世の中は私には難しいことばかりで、本の中は逃げ場でもあった。本の中ほど、私の知らない世の中が詰まっている物もないというのに。だからこそ惹かれるのだと、今は気づいているが。

今日も朝から、裏の竹藪で鳥たちが囀っている。最近までよく聴こえたのは鶯だったが、硝子の楽器に似た声で鳴いているのはなんという鳥だったか。

こんな五月の初めに読みたいのは、凛と磨かれた緑の鳩山郁子だ。精緻に手入れされた庭の中野シズカ、鮮やかな毒を含む長野まゆみ、野草豊かな梨木香歩、切なく明るい安房直子、山の息吹匂う漆原友紀、生命力に溢れたますむらひろし、木漏れ日と歌声の樫木拓人も読みたい。じっくり味わってもいいし、摘み読みもしたい。他にもまだまだあるはずだ。


こうして、緑滴る本棚はさらに乱れ、回したはずの洗濯機は忘れ去られた。まあいいだろう。急ぐこともない。
緑たっぷりの読書の日々は、始まったばかりである。

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