ワインになるのか、ビールになるのか──アメリカの酒文化に学ぶSAKEの未来【告知】
SAKE Streetという日本酒/SAKEメディアにて、「アメリカの酒文化に学ぶSAKEの未来」という前後編の記事を寄稿させていただきました。
↑前編は、アメリカでSAKEを造るクラフト・ブルワリーが増えている背景と、アメリカSAKEの未来について。「アメリカSAKE、クオリティ的にはまだまだ日本に敵わないかもしれないけど、ビジネス面では超優れてるし、甘く見てるとすぐ追い抜かされちゃいますぜ(意訳)」みたいな話をしています。
↑後編は、アメリカでクラフト・ブルワリーが増える要因となった制度の歴史をひも解きつつ、日本の日本酒業界の展望について「アメリカでクラフトビールがその地位を獲得したのは業界団体の奮闘があったからこそだし、日本も上の決定を鵜呑みにするトップダウン形式は卒業して、業界主導のボトムアップで現状を変えてゆくべきですぜ(意訳)」みたいな話をしています。
+ + +
今回の記事を書くにあたって、メインの資料となったのがスティーブ・ヒンディ著「クラフトビール革命」という書籍です。
ブルックリン・ブルワリーというクラフトビールの醸造所の共同創設者である著者が、アメリカでのクラフトビールの興隆について(アメリカのクラフトブルワリー数は世界一!)、「そこまで書く必要ある?笑」とツッコミたくなるくらい事細かに、ドラマチックに描いています(ファッション含む人物描写が特に印象的)。
わたしはSAKE Streetの編集者である二戸さんにご紹介いただいて読みましたが、Twitterなどでのリアクションを見ていると、業界のキーパーソンとなる方々にも愛読されている書籍のよう。アメリカをはじめ海外の新興SAKE市場を追っている身としては特にヒントになる要素が多く、「これは日本酒業界に置き換えるとアレのことなのでは」「SAKEもこれを真似すればよいのでは」と興奮しながら読んでいました。
最近、同著者の新刊も刊行されたらしく、これもまた読んでみたいな、と思っています。
+ + +
今回の記事の前編にも書いたのですが、アメリカのSAKEブルワリーは税制面において「州」からは「ワイン」と見なされ、「連邦(国)」からは「ビール」と見なされています。日本酒/SAKEは、英語では「rice wine」などとも言いますし、「海外市場はワインの1%しかない」など、日本の文脈においてはなにかとワインと比較されることが多い飲み物です。
しかし、こうしてクラフトビールの歴史を見ていると、「SAKEはワインよりもむしろビールとの親和性を意識してもよいのでは?」という気がしてきます。
アメリカでは禁酒法のあと、ワイン造りはすぐに解禁されましたが、ビールの自家醸造解禁には40年ほどの時間がかかりました。これには実はキリスト教が絡んでいて、言わば「ワインは守られているが、ビールは守られていない」。そのため、アメリカのビール文化は土着(ローカル)の精神がたくましく、自分たちの力で不遇な状況を打開してゆこう、というアグレッシブさがあるといえます。
この話題に絡めて、実はいま、こんな本も読んでいるのですが、
各酒類の歴史を学んでいると、果たして日本酒/SAKEはワインになるべきなのか、ビールになるべきなのか? なんてことを考えさせられます。
ビールは老若男女、富める者も貧しい者も、社会的階層の頂上から底辺まで万民に飲まれた。
と綴られているように、ビールは基本的に、「ケ(日常)」の飲み物であると言えるでしょう。
ワインにはハイエンドのプロダクト(何十万円とする超高級品)が存在するが、ビールにはもしかして「高級品」が存在しない……? そう思い、Twitterの相互フォロワーであるビア・ジャーナリストの長谷川小二郎さんに質問させていただいたところ、「ビールは大量生産品が非常に安いのと、開封したら基本的に飲み切らなければならないことで、他の酒と比べると高くしづらい」というご意見をいただきました。ビールは文化およびその性質から、高級化と結びつきにくい商品、と言えるかもしれません。
一方でワインについては
ワインを口にできることは、高い地位の証だった
階層によって口にする種類が厳密に定められ、比類なき文化的洗練を誇り、快楽主義と哲学的探求を促す力をもつ
などなど、リーズナブルな商品が誕生することを認めつつも、根本的にその質が権力や「ハレ(非日常)」のイベントと強く結びついていることが説かれています。
大衆化されてゆくべきか、ラグジュアリー化されてゆくべきか──ここでたどり着くべき結論は単純です。日本酒/SAKEはハレとケの両面を持っていて、ワインにもビールにもなり得る、と考えればよいわけです。
しかし、「両方」をやるための通気性のよさがいまの日本酒/SAKEにあるだろうか、とは思います。事実、ワインに倣った高級化が説かれてゆくと、日常酒としてのリーズナブルな消費のされ方は否定されてしまいやすい。というより、誰に否定されたわけでもないのに、業界としてのパイが小さいせいで、大きな流れに背くのは誤った動きなのではないか? と、被害妄想的に思わされてしまう。
アメリカにおいて、SAKEはワインであり、ビールでもあります。いわば税制面での「ややこしさ」でもありますが、この揺らぎを「柔軟性」ととらえ、SAKEのより自由な未来へ向けての解釈として応用してゆくことはできないでしょうか。
(少しずれますが、わたしは日本酒/SAKEはワインよりもウイスキーに似ていると感じていて、同じくSAKE Streetに寄稿しているわっしーさんのおっしゃる「穀物酒」と「果実酒」という捉え方を興味深く見ています)
+ + +
ところでこちらの「クラフトビール革命」、著者のスティーブ・ヒンディが元ジャーナリストの醸造家とあって、造り手、流通、売り手、マーケターや組合と同じくらい、ジャーナリストがクラフトビールの興隆にとって重要な存在であったことが説かれています。
実際にお酒の製造や販売に貢献する存在でない以上(わたし個人としては飲食店・酒販店の経験もありますが)、謙虚でなくてはいけないという自戒は大前提の心構えとして持っています。一方で、以前、自分がなぜSake Journalistになったのかを書かせていただいたように、自分はメディアの人間として、日本酒/SAKEの世界の中で誰かがやらねばならない/ほかに誰もやらない役割を果たすべきだ、という覚悟もあります。
日本酒/SAKEの世界において、ジャーナリズムが重要な役割を果たした──いつか、世界が変わったときに振り返ってみて、そう解釈してもらえるように、「Sake Revolution」という書籍にそう書かれるように、いまできることをやっていこう──「クラフトビール革命」を読んだことは、自分が物語の登場人物になったかのようにワクワクさせられ、奮い立たされるよい読書体験でもありました。
わたしが書いた記事を読みながら、みなさんにもそうした追体験をしていただければとてもうれしいです。