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【短編小説】一滴の悪魔

・あらすじ
 毎日に退屈する主人公・入江旬は、退屈の打破方法を自身の記憶の中から思いつく。それは学生時代にイギリスの古い民家にあった本で見た、悪魔召喚だった。
 どうせ退屈で心が死ぬくらいならと、旬は悪魔召喚の儀式を行う。自ら手にかけた友人の遺体を依り代に召喚された悪魔。ミゼルと名乗ったその悪魔に旬は、「世界を壊したい。それを特等席で見たい」と願い、契約。
 望み通り壊れていく世界を特等席で眺めた旬は、対価に己の魂を差し出すが、ミゼルには別の思惑があった……。

この物語はフィクションです。
実在の人物・団体等とは一切関係がありません。
また、犯罪・差別・戦争を肯定・助長する意図もありません。

 



 ――この世界は抑圧され過ぎている。

「……おい、何かの冗談だろ……? そうだよなっ……?」

 こつん、こつん。俺の足音が響く。その後をぴったりと追うように、ずりずりと床を這う音がハーモニーを奏でている。俺の手に握った包丁に温かなオレンジ色の電球が反射した。

 ――もっと、面白いと思っていた。

「何でなんだよおい! 旬! 俺が何を間違えたって言うんだよ!?」

 死体はより綺麗な状態が好ましい。そう書いてあった。随分と昔に読んだ本の記憶を掘り起こしながら、打ちっ放しのコンクリート壁に背を捕らえられた彼を見下ろす。革靴と這いずる音のハーモニーはここらで閉幕だ。
 ゆらりと構えた包丁は、大型の魚類を解体するのに用いられるもの。刃渡りは約六十センチと非常に長く、一般的な成人男性の体を貫通するには十分だ。これなら無駄な傷を付ける事なく急所を貫通出来る。
 形状と用途を鑑みれば格好をつけて刀でも良かったのだが、とにもかくにも手軽さを重視した。包丁と言うのは誰でも手軽に手に入れられる、平等な凶器だ。銃は音が不協和音で論外である。

 ――何よりも面白いと、思っていた。

「なあ旬! 頼むから! 俺とお前の仲だろ!?」
「だからお前が望ましいんだ」

 死体は心がより自分に近しい者である事が望ましい。そう書いてあった。古い古い本だ、紙を崩してしまわぬように読むのは苦労した。ああ、これは掘り起こす必要がないものだったな。いらぬ記憶は再度本棚に仕舞い、人体の記憶を引っ張り出す。
 一突きで心臓を貫通する。その為の記憶を引っ張り出す。構えた包丁の切先が数センチのズレを起こさないように、腕に力を籠める。ただし数ミリのズレならば許容範囲内。そう頭の中で導き出した計算に基づき、腕を前に突き出した。

 ――ああ、一滴だ。一滴だけで良い。

 彼の短い悲鳴。次の瞬間に訪れる死を悟った人間にしか出せない断末魔。そして包丁が柔らかく硬い成人男性の皮膚を突き破り、肉を裂いて突き進む感触。人間が生きていく上で欠かす事の出来ない臓器、心臓を貫く感触。まばたき一回ののちに包丁が背中へと抜け、剥き出しの空間に晒される感覚。
 たったの一突きで鼓動を止めさせる感覚。

 ああ、別に楽しい訳じゃない。歓喜で狂喜乱舞している訳でも、ましてや快感を覚えた訳でもない。こう言う感覚か、と。ただただ、知識・経験としてそう頭にインプットしただけ。
 さて、ハーモニーはとうに閉幕している。いやこれで終幕か。あとは彼の血を絵具にすれば良いだけだ。体を貫通した包丁はそのままに、動かなくなった彼の両脇に腕を入れ、コンクリートの床を引きずって移動させる。ずりずりとスーツが擦れる音が不快だ。
 あらかじめ用意していた物のない空間。その中心に彼を転がし、包丁を勢い良く引き抜いた。べったりと付着した鮮血は拭き取らず、彼の腹の上へ包丁を寝かせる。
 最後は傷口から溢れた真っ赤な絵具を左手のひらに付け、転がる彼を囲う円を描く。出来るだけ均一に。足らなくなれば新鮮な絵具はいくらでもある。傷口に手のひらを押し当て、補充した絵具で円の続きを描く。

 紋は何でも良い。これと言った形は存在しない。ただし紋は目印である。目立つように分かりやすいように、贄を囲う事が望ましい。そう書いてあった。ああ、そう言えばあの本を読みに行った日は酷く暑かった。帰りに飲んだレモネードが体に染み渡ったのをよく覚えている。
 鮮血の始点と終点が繋がった瞬間、そのまま手のひらを添えて唇を開いた。

「我が望みを叶え給え。さすれば我が魂をくれてやろう」

 ――水面に波紋を広げる為の、一滴だけで良い。

「贄と餌はここにある。さあ、我が望みを叶え給え」

 無機質な打ちっ放しのコンクリートに似つかわしくない程、電球のオレンジ色が温かで歪さを醸し出す。お洒落かと思って設置したのだが、どうにも程遠い。
 そしてそんな歪な電球など霞んで消える程に、彼を囲った円が鈍く鋭く赤黒く、光を放っていた。
 それを見て俺は、まるで走馬灯のようにこれまでを振り返った。


◇◇◇


 国のトップになったのは六年前。総理大臣の椅子は、存外固かった。

「入江総理、今回の外遊の手応えはいかがでしょうか?」
「ええ。強い手応えを感じています」

 ――ああ、反吐が出る。
 笑顔を崩さず囲み取材に応じながら、心の中で毒をこぼした。何が外遊の手応えだ。そんなものある訳がないだろう。どいつもこいつも及び腰。二言目には、「だが」「しかし」「ですが」で保身の嵐。
 それは六年の歳月をかけても、何も変わらなかった事の証左だった。

 くだらない質問を受け流し、部下が取材切り上げの言葉を読み上げているのを右から左へと流す。頭に入れる価値もない。頭のリソースは有限だ。ゴミを入れるスペースなどもとよりない。
 軽く左手を上げ会釈をし、記者達に別れを告げ背を向ける。エレベーターに乗り込んですぐに、溜め息を吐いた。

 世界はもっと広いと思っていた。上に行けば行く程、楽しみの幅が広がるのだと思っていた。子供から大人へ。学生から社会人へ。一般人から政治家へ。上に行けば行く程、もっと面白いのだと思っていた。世界が広がり、膨大な知識を得て更なる楽しさ・面白さを体感出来るのだと思っていた。
 いや、本当は薄々感付いていた。何も知らぬ子供の頃の方が面白かったと。上に行けども出来る事の幅は然して広がらないのだと。世界には想像を絶する程の馬鹿がいて、大体数がそれに該当するのだと。

 つまらなかった。何もかもがつまらなかった。
 出来る事はやり尽くした。清廉潔白なふりも嗜んだ。面白そうなものは片っ端から手をつけた。女遊びも金遊びも、武器も薬も人身売買も。とにかく片っ端から手をつけたが、どれも想像の域を出る事はなかった。
 「想像通りの面白さ」しか、そこにはなかった。
 だからもっと想像のつかない事をしたくて、他国を巻き込もうと思った。金も時間もかけた。戦争でも出来れば儲けものだと思ったが、そこで俺はこの世界の限界を悟った。

 この世界はあまりにもつまらない。抑圧を享受している。

 誰もが「やらない理由」を探している。世界が「やらない理由」を求めている。前に進む努力は一切せず、現状維持と言う名の退化をしている。誰も現状維持に疑問を持たない。思考を放棄している。
 そんな抑圧を享受した世界など、あまりにもつまらない。

 国のトップに立った末に得たものは、世界への絶望でしかなかった。

 俺の心は死んでしまった。これから一体何を楽しみ生きていけば良いのだろうか。毎日毎日、頭の足らない奴らの相手をし、税金で私腹を肥やすだけが俺の人生だとでも言うのだろうか。ぶくぶくぶくぶくと、金と脂肪を蓄え続けるだけが俺の人生だとでも言うのだろうか。そんなつまらない人生が俺にお似合いの人生だとでも言うのだろうか。
 ああ、神とはなんと残酷なのだろうか!
 居もしない存在にそう嘆きかける程、俺の心は死んでしまっていた。刺激のない人生。全てが想像通りの人生。表情筋は笑っていても、俺の心は涙を流し続けるだろう。いや、もう涙など涸れ果ててしまったのかもしれない。

 そんな折の事だった。贄の彼が笑い話を持ち込んできたのは。
 不快な暑さの残る、夏の終わりの事だった。

「はあ? 悪魔祓い?」
「そうそう! なんでも、イギリスの辺鄙な田舎では未だに行われてるらしい!」

 まあそれも数年に一回あるかないか程度らしいけど。そう続いた彼の言葉を適当に受け流す。どうして悪魔祓いなんて話になったのかはよく覚えていない。他愛もないただの雑談から発展していったはず。馬鹿げた話だ。そう一蹴しようとした瞬間、ばさばさと頭の中の本棚から落ちてきた記憶を掘り起こした。
 大学生の頃、旅行でイギリスに行った時に悪魔関連の本を読んだ事がある。面白さを最重要事項とし、出来るだけ田舎を巡る無計画旅行だったが、その際に出会った老夫婦の家で見たはずだ。古い古い本で、紙が崩れてしまわぬように読むのに苦労をした本。
 ただその内容は悪魔を祓うものではなく――

「……ん? どうした? 旬」
「いや、なんでもない」

 彼に指摘され、慌てて上がった口角を定位置に戻す。手のひらで口元を覆う。もう一度、口角を上げる。
 どうせつまらないなら、悪魔のひとりや二人を召喚してみたって良いじゃないか。
 もちろん、別に悪魔なんてものを信じた訳じゃない。ただ、なんとなく。暇潰し。退屈凌ぎ。それ以上も以下もなかった。いや、正確に言えば何でも良かったのだろう。
 この抑圧を享受する世界と言う、静かな水面に波紋を広げられるのならば。


◇◇◇


「……ははっ、マジかよ……」

 走馬灯のような思い出の発掘作業が終了した頃、描いた鮮血の円の中に贄の彼の姿はなかった。彼を貫いた包丁もなかった。代わりに贄の彼が着ていたものとは全く異なる、グレーの生地に白の細いストライプ柄をあしらったスーツに身を包んだ、推定男がひとり。
 それを見て思わず笑いがこぼれたのは、その推定男が宙に浮いていたからだ。蝙蝠のような翼と、さらりと垂れる尻尾はまるで悪魔のテンプレートのよう。頭には蜷局を巻いた大きな角。耳の先はやんわりと尖り、シンプルな黒のピアスが両の耳朶にひとつずつ。指先の爪はネイルとは思えない程に深く、一ミリの艶もない漆黒。へその辺りまで長い髪は、黒とインナーカラーの赤が混ざり合うように三つ編みにされている。
 そしてこちらを見るその目は、本来白目であるはずの部分が黒く、瞳が赤い。瞳孔は獰猛な猫科の猛獣のように縦長。目が合っただけで、まるで井戸の底を覗き、地獄の入口を覗き見したような錯覚をさせられる。こんなおおよそ人間とは思えない存在を目の前にすれば、そりゃあ笑いをこぼすしかないだろう。

 だがそれと同時に俺の心は、確かに息を吹き返していた。

「何百年ぶりになりますかねぇ……人間に呼び出されるのは。あれは確か、イギリスだったと思いますが……」
「……なあ、お前本当に、悪魔なのか?」

 俺の質問に反応してか、推定悪魔は宙についていた足を地面に下ろす。こつんと革靴の音がコンクリートに響いた。悪魔はその尻尾をゆらゆらと揺らしながら、ゆっくりと俺に近付く。一歩、また一歩。薄い唇でにんまりと弧を描いたまま、一歩また一歩と俺に近付く。それを目を逸らさずに見つめ、思考する。
 たったの一瞬で成人男性の死体が消えるなどあるはずがない。彼は死亡して間もない、故にまだ死後硬直は始まっていない。しかし意識のない人間は、意識のある人間が想像する以上に重い。俺が彼を引きずって運ぶ事にも苦労したのだから、たったの一瞬で死体を消え失せさせるなんて芸当は人間に出来るはずがないのだ。つまり目の前の存在は、悪魔かどうかはさて置いたとしても、確かに人間ではないものだ。
 となるとこの行為はこいつなりの「審査」なのだろう。いくら自分が願ったとは言え、目の前に突然人ならざるものが現れ、どう反応するのかを見ているのだろう。怯えるのか威圧的になるのか意識を失うのか。
 人ならざるものの審査基準など知るはずもない。ついに目の前まで来たこいつが、にんまりと弧を描き続ける意味も、俺の想像の域を遥かに超えている。

 そう、俺の想像の域を超えているのだ。
 胸が躍る。心がとんでもない速度で蘇生する。あのつまらなかった人生が一変する予感。つまらないが砕け、面白いが大軍を成してやってくる予感。色を失った世界が急速に色を取り戻し鮮明になる予感。

 世界が抑圧から解放される予感。

「ええ、私は悪魔ですよ」

 悪魔の微笑みが、俺には天使の微笑みに見えた。

「俺と契約してほしい。魂ならくれてやる」
「ほう? では貴方が私に望む事とは?」
「世界を壊したい。それを特等席で見たい。その為の一滴を垂らしてほしい」

 人ならざるものに対してすらすらと出てくる言葉に、自分でも微かな驚きを感じる。ああ、今の俺はあの頃にように無邪気に笑っているだろう。自分でも分かるのだ。開いた唇と上がった口角。新たな経験に湧き躍る心。空虚な人生では得られない幸福の予感。
 面白い事がしたい。面白ければ何だって良い。その結果、たとえ悪魔に魂を渡そうとも。そもそも死後などどうでも良い。地獄だ天国だなんてのは信じちゃいないし、自身で知覚出来ない事になど価値はない。
 この俺の魂ひとつで面白い事が出来るのならば安い買い物だ。

「ほう。面白い」

 俺の言葉に目の前の悪魔は一層笑い、頷く。黒と赤の目が俺を見据えていた。細い瞳孔がより細められる。どうやら俺はこいつの審査に合格したようだ。赤い瞳が鈍く輝き、俺を捉えて離さない。
 悪魔の人さし指が、俺の胸をとんと突いた。丁度心臓の真上で指の腹が規則的に滑る。何をしているのだろうかと、直線のみで構成されたその規則的な動きを頭の中で模倣してみる。するとそれは星を、それも六芒星を描いている事に気が付いた。そして俺がそれに気が付くと同時に、再度とんと人さし指で胸を突かれる。
 悪魔の薄い唇がそーっと、妖艶に開いた。

「我がミゼルの名の元に、入江旬との契約を結ぶ」

 どうして俺の名前を。そう問いかけようとした瞬間、ほんの一瞬息が止まる。どくん。心臓が大きく大きく脈打った。そんな体験などあるはずがないのに、まるで心臓を鷲掴みにされたような感覚が全身を駆け巡った。

「この瞬間より汝の魂は我が物となり、我はその対価として汝の願いを叶えよう」

 熱い。心臓が熱い。バーナーで直に焼かれているような錯覚。いや、レーザーで心臓に直接何かを刻まれているような熱さと痛み。それも錯覚ではなく、確かに何かを刻まれている鋭い感覚。
 熱い。痛い。熱い。痛い。痛い。痛い。手が勝手に震える。体が勝手に震える。何もかもを手離してしまいたくなる程の激痛。こんな痛みを伴いながら、一体何を刻まれていると言うのだろうか。

「悪魔との契約は絶対。逃げる事は出来ない。その魂はすでに我が物である事を、ゆめゆめ忘れぬように」

 悪魔の言葉を頭に入れつつ、朦朧とする意識で痛みの形を組み立てる。何か。ああそうか、これは先の六芒星と同じだ。直線で規則的に刻まれているこれは、先程この悪魔が指先で描いたものと同じ。
 しかし理解したところでこんなものは人智を超えている。心臓に直接紋を刻まれるなど、生きているうちどころか死んでも経験する事はないだろう。
 なるほど。ああ、理解すればする程、面白い。この悪魔、確か先程「ミゼル」と言っていた。ミゼル、それがこの悪魔の名前か。ミゼル。悪くない名前だ。
 激痛に意識を手離した瞬間、俺は確かに笑っていた。


◇◇◇


「契約の儀式で笑っていたのは貴方が初めてですよ、旬」
「そりゃ光栄だわ」

 ぱちりと目を覚まし上半身を起こした頃、ミゼルは部屋を物色していた。だがコンクリート打ち放しの無機質な空間だ、目ぼしい物は何も見つからなかったのだろう。「面白味のない部屋ですね」と呟き、目を覚ました俺に視線を向けた。こつこつこつと、近付いてくる革靴の音がコンクリートに響く。
 そして当然のように名前を呼ばれる事に疑問を持つ事は止めた。質問をしようとした唇を閉じ、言葉を呑み込む。ミゼルは人間ではないのだ。人間の常識で推し測る事がそもそも間違っている。俺はそう結論を出し、着ていたYシャツのボタンを外した。
 心臓の真上。さらりと撫でてみれば普段通りの素肌。あんな激痛を伴ったと言うのに、傷ひとつなかった。まるであの熱も痛みも幻だったと言わんばかりに。だがあれが幻でない事は目の前にいるミゼルと、俺の全身が告げている。確かにこの心臓には契約の紋が刻まれたのだと。

 そんな風にひとり分析・納得している俺が面白かったのか、ミゼルの低くも微かに艶のある声が笑った。俺の隣で屈んだミゼルは自身の漆黒の爪を見ながら、「見える場所に欲しかったですか?」と呟く。その些細な仕草にもどこか微かに艶があり、まさに文字通りの妖艶さを感じた。俺よりも数センチ高い、およそ一八五センチ程の体躯である推定男につける感想としては些か不釣り合いだろうが。
 そして俺の感想を嘲笑うかのように、オレンジ色の電球がミゼルを照らしていた。彼は天使ではなく悪魔であると知らしめるように、背中の翼を照らしていた。

「いや、見えるところにあったら面倒だ。これでいい」
「その割には残念そうに見えますが?」
「残念じゃない、って言えば嘘になるな」

 心臓とその上の肌、両方にあれば面白かったのに。そんな俺の呟きにミゼルがおかしそうに笑う。普通は見えないところにあるのを知って安堵するのだと言って、おかしそうに笑う。
 その意見は分かるが、どうせ一生で一度しか出来ない体験なのだ。見えるところにも紋があればテンションが上がるだろうに。思春期の心が甦ってくるような感覚を覚えるだろうに。
 だがミゼルの、「ではもうひとつ刻みましょうか?」の提案は丁重にお断りした。さすがにあの激痛をもう一度味わうのはごめんだ。

 そんな短い談笑を交わし終え、さっと服を整える。悪魔は想像以上にまともな意思疎通が出来るようだ。まあそもそも何故日本語が通じているのかなど聞きたい事は山のようにあるが、それをひとつひとつ聞いていては日が昇る。
 散らかっていた思考を一本にまとめ、何をするかを考えた。俺の魂を対価に、一生に一度の大イベントをやるのだ。たった一滴、されど一滴。より大きな波紋が広がる一滴でなければ意味がない。面白くない。
 隣のミゼルの顔を覗き込みながら、何が出来るのか何をすれば一番面白いのか、何度も何度も思考した。ミゼルの赤い瞳が微笑みながら俺を見つめる。やはり何度見ても、俺にはミゼルが極上の天使にしか見えない。

「悪魔って何が出来るんだ?」
「なんでも」
「なんでも?」
「ええ。そもそも悪魔とは人間が勝手につけた名称です。我々は人間が崇める神そのものですから、まあなんでも出来ますよ」
「……マジか」

 推定悪魔から確定悪魔へ、そして神になったミゼルに目を丸くした。その話を聞いて好奇心が音量を上げる。思考をまとめねば日が昇ると言った舌の根の乾かぬ内に、その舌を取り外して面白そうなそれをつい掘り下げた。
 ミゼル曰く、所謂天界には悪魔も天使も存在しない。その全てが等しく神らしい。そもそも天界と言うのが、輪廻転生の輪から外れた世界。人間的に言うと解脱した存在・高次元の存在だ。それ以上も以下もないらしい。
 それなのに様々な名称が生まれたのは、単に人間から見てどう見えるか感じるかの違いしかないようだ。神様と呼ばれるのは、時折人前に姿を見せる友好的な神。悪魔と呼ばれるのは、人の欲望に応じて姿を見せる神。無論ミゼルは後者に当たる為、悪魔を自称しているそうだ。

「へぇ、じゃあ解脱って本当に出来るんだ」
「まあ並大抵の人間が到底、到達出来るものではありませんがね」

 輪廻転生が実在した。解脱は存在する。ミゼルの話を聞いていると、他には何があるのか出来るのか、天界に酸素はあるのか神はどうやって生まれるのか睡眠は必要なのか食事は必要なのか、気になる事が山のように湧いてきた。好奇心が激しく刺激される。大音量で騒ぎ出す。気になってしょうがない。
 しかしここで質問を始めると何時間あっても足りないだろう。時間は有限だ。日が昇ると言った舌を取りつけ、脱線した話を線路に戻し、世界破壊線を走らせた。
 ふーっと息を吐いて、彼方へ飛んで行きそうな思考を捉まえる。

「一気に全部を壊したい訳じゃないんだ。どこかに、ぽんと水滴を落とす。そこから波紋が広がっていって、壊れていくのを特等席で見たい」
「水滴ですか……ふむ。ではアメリカを沈めてきましょうか?」
「は?」

 俺の言葉に対して、顎に手を添え至極真面目な思案顔を見せたミゼルが、ぽんと手を叩いた次の瞬間に荒唐無稽な言葉をこぼした。それはそれは楽しげに、まるで無邪気な子供のようにこぼした。
 は? 沈める? アメリカを? え? あの大陸ごとって事か? いやいやさすがに神だとて大陸を沈めるなんて。そんな荒唐無稽な。あれか、国家を潰そう的な意味での沈めるだろ。そうに決まっている。

「違いますよ?」
「え?」
「物理的にです。その方が早くて楽ですから」
「早くて楽」
「ええ。早くて楽です」

 言いたい事は多々あった。何故俺の思考を読んでいるのかとか、大陸を沈める事が早くて楽とはとか。多々あったのだが、どれもこれもがあまりにも俺の常識の範疇を超えていて、目を丸くする以外に何も出来なかった。
 いつ何時も言葉を巧みに操ってきたと自負していたが、ここまで言葉で驚きを与えられたのは初めてだった。初めてで、面白くて。
 ああそうかこいつは悪魔だったと頭で改めて理解した瞬間、大きな笑いが腹の底から込み上げてきた。どうやら俺は心のどこかでまだこいつを「人間の常識」で推し測ろうとしていたらしい。なんと滑稽な事だろうか。そう思うと笑わずにはいられない。
 急に笑い出した俺を怪訝そうに見るミゼルのその顔はまるで人間のようだが、こいつは人間ではない。悪魔なのだ。そしてそんな悪魔と俺は契約をした。ああそうだ、俺も人間の常識で推し測れる存在ではなくなったのだ。

 捨てよう。人間の殻を。俺はとうに人間ではなくなったのだから。

「あー、おもしろっ。ミゼルお前ほんと面白いわ」
「そうですか? 私からすれば突然笑い出す旬の方が面白いと言うか、変に見えますが」
「だろうな。変人を見る顔してたし」
「おや。嘘は得意な方なのですがね」
「嘘だろ。顔に出まくってたぞ」

 ミゼルと話す度に心が軽くなる。無邪気になる。何も背負っていなかったあの頃に返っていく。面白いを追及するだけの無邪気な心に返っていく。
 それは何よりも幸福な事だった。生きる意味を取り戻したと同義なのだから。

 差し出した左手。ミゼルはこてんと首を傾げたが、有無を言わさずにその右手を掴んだ。ネイルと呼ぶには深過ぎる艶のない漆黒の爪。契約のせいだろうか、握れば感覚で分かる。やはりこいつは人間ではないと。
 だがそんな事はどうでも良い。ミゼルが悪魔か天使か神かもどうでも良い。短い間だが、こいつは俺の相棒と呼ぶに相応しいのだから。

「じゃあそれでいこう。頼んだぞミゼル」
「はい、承知しました。旬」

 にんまりと笑ったこの悪魔は、これから大国を沈めに行く。何人もの死人が一瞬で出来上がる。俺はそれをこの悪魔に頼んだ。もし裁判で裁かれるとしたら、間違いなく有罪だ。共犯者・殺人教唆・死体遺棄、その他どんな罪状がつくのだろうか。それを考える事すら面白い。
 法律など、所詮は人間が人間を縛る為のもの。人間でなくなった者には何の効力も持たない。だが自分の罪状を考える事は面白い。俺に面白がってもらえるのだ、法律も涙を流して喜んでいるだろう。

 無機質な床から立ち上がり、がちゃりと扉を開けて外へ行く。隣には相棒の悪魔を添えて。
 たったそれだけで、いつもはくだらない街のネオンも、今日は色鮮やかに見えた。

「てかお前は何で敬語で喋るんだ?」
「人間相手に喋るのはこれが一番楽なので。もう癖ですね」
「ミゼル、お前さてはめんどくさがりだな?」
「ふふ、そう言われた事もあります」


◇◇◇


 真夜中の海の上。ミゼルの左腕一本で軽々と抱えられながら、月明かりに照らされ、ふわふわと空を飛ぶ。男の腕で抱えられている点は誠に遺憾だが、パラシュートも何も付けずに安定して空を飛ぶ感覚は新鮮で面白い。
 そして俺達の真下、見下ろした大きなアメリカは、月明かりも跳ね返す程に明るい。真夜中だと言うのに完全に止まる所はないようだ。これでは星空のひとつも楽しめやしないだろう。もったいない。

「ミゼル、アメリカだけを沈めろ。他の国に地震も津波も必要ない」
「承知しました」

 俺の滅茶苦茶な注文に、ミゼルは笑うだけ。月明かりでその赤い瞳を彩って笑うだけ。海の底にあるプレート云々など、悪魔には関係ないらしい。正直に言うと無理だと言われるかもしれないと思っていたのだが、愚かな杞憂に終わりそうだ。
 さて、一体何をどうするのだろうか。これから始まる惨劇に躍り出す心を止められない。すっと上げられたミゼルの右腕。次いで音なく薄い唇だけを動かし何かを呟く。然程文字数のない言葉だったのか、俺が解読し終えるよりも先に読み上げが終わってしまった。そしてそっと下ろされた右腕に合わせて、波が立ち上がった。
 アメリカの外周をなぞるように、波が大きく大きく立ち上がる。ここからでは正確な高さは分からないがかなりの高さになった波が、まるで結界でもあるかのように国の外周にだけ立っている。目を凝らしてみると他国と地続きの部分には、国境を目印に薄っすらとオーロラのようなものが見えた。

「さあ、旬。ご覧ください。貴方が望んだ破壊の一滴を」

 ぱちん。ミゼルが指を鳴らした。夜空に響き渡るように。静寂を切り裂くように。

 次の瞬間、立ち上がった波が陸地を呑み込んだ。一瞬。ほんの一瞬の出来事だった。絶対にまばたきなどするものかと目を見開いていたのに、まばたきをしてしまったのではと錯覚する程、一瞬の出来事。
 轟音も悲鳴も警報も何もなく、大国が海の底に沈んだ。地球の王たる国が消え失せた。
 ――ああ……面白い……。

「……各国の軍がすぐに気付くはずだ……衛星でも捉えられなくなった事で混乱を極めるはず。だがたったの一夜・一瞬でアメリカが消え失せるなど誰も信じられない……つまり身動きをどう取るべきか右往左往する……しかしいの一番に動いた国が覇権を握ると判断し一瞬で動きは活発化するはず……」
「お望みの一滴になりましたか?」
「ああ……! 最高の一滴になった……!」

 ああ、面白い。面白い面白い面白い! こんなに心が湧き躍るのは初めてだ! 早く各国の反応を見なければ! 自国民の反応も気になる! ああ全てが気になる! これは寝ている暇など一瞬たりともないぞ!
 首相官邸に向かうミゼルに、中国はこう動くのでは、ドイツはこう動くのではと各国の予想・考察を語る口が止まらない。ミゼルは適度に相槌を打つだけだが、耳を傾けてくれているのは楽しげに笑うその唇で伝わった。
 歓喜で身震いする。俺はこの国のどこをどう動かそうか。今目の前にあるこれは、大きな大きな樹だ。どこの枝をどう切ればどう分岐していくのかが未知数の、大きな樹。大量の結末は俺の剪定次第で如何様にも変わる。
 ああ、どこから鋏を入れてやろうか!

「よし! まずはインドの外務大臣に連絡をしよう! それから中国の知り合いのマフィアに連絡を入れて……」
「旬、首相官邸に到着しましたよ」
「ん? ああ、ありがとうミゼル」

 興奮で頭をフル回転させている間に首相官邸に到着したらしい。あまりにも安定感がある為、自分が今の今まで空を飛んでいた事すら忘れていた。ミゼルが気を遣って人目につかない場所に降り、地面に下ろされてようやく空にいた事を思い出す。
 久しぶりの硬い地面に驚いた体は足をふらつかせた。さっと伸びてきたミゼルの腕がなければ、綺麗に無様に転んでいただろう。だが今そんな事はどうでも良い。とにかく回転した頭が弾き出した選択を実行したい。いや、実行しなければ。もっともっと面白くしなければ。
 この剪定の特等席は俺なのだから。

「ミゼル! なんかこう上手い事人間に紛れて俺の部屋まで来てくれ!」
「承知しました」

 走り出した足を止める事なく、後ろを振り返りながらミゼルに指示を出す。ミゼルを呼び出した俺はもちろん気にするはずもないが、他の馬鹿共にはそうはいかない。あの姿のままではどこをどう取っても怪しまれる。今ミゼルは俺の相棒だ。頭の足らない馬鹿共のくだらない指摘は排除しておきたい。時間の無駄だ。
 あれをしてこれをしてと、とにかく回り続ける頭と高揚感をそのままに官邸内を駆ける。そして自室の扉を勢いよく開いた。頭の回転は止めない。思いつく事は全て頭の中で計算材料にする。トライ&エラーを何度も何度も繰り返し、より良い剪定を探す。
 収納の多さにこだわったデスクの引き出しを片っ端から開き、中の資料を全て取り出した。データは場所も取らずに便利だが、如何せん後を濁す。紙の利点は、モノがなくなれば後を濁さずな点だ。まあとどのつまり、現金信仰と似たようなもの。いつの時代も現物のやり取りはなくならないのだ。

「インドのー……外務大臣は……いや、前に会談した奴の方が良さそうか……?」

 それが秘密裏な人間関係なら尚の事。ぱらぱらと紙をめくりながら、目を上下左右に、一言一句を逃さぬように忙しなく動かす。重要人物とのやり取りは全て残してある。連絡先も住所も家族構成も。ぽろりとこぼした、たったの一言でさえ。全てが使える駒になりうる。
 しかし資料を漁るうちに頭は、当初の目的人物とは別の人物を弾き出した。少し前に会談した政治家だ。地位は然程高くないが、野心の強さは人一倍。いや十倍程はある。つまり、ふーっと吹けば瞬く間に燃え上がる炎。
 にやりと左右の口角が吊り上がった。こいつだ。まずはこいつに薪をくべる。野心に反して頭の出来はたかが知れている奴だ。簡単に燃え上がってくれるだろう。
 引き出しの中、六台ある携帯電話のうちのひとつを手に取って、電源ボタンを押した。眩しいブルーライトが目に付き刺さるが、気にしている暇はない。画面に人さし指を滑らせ、手短な文章を作る。この間はありがとう程度から始まり、野心を刺激する文章で締め括った。

「内密な話がある、っと。これでこっちはOK」

 送信ボタンを押し、携帯電話をデスクの上に転がす。次は別の携帯電話で知り合いの中国マフィアに連絡を取った。政治家に顔の利く奴だ、直接的に政治に触れるよりよっぽど都合が良い。
 「面白い話を手に入れた」と、より手短な文章を送信し、ふーっと一息。さて、そろそろ自国が動き出す。自衛隊から連絡が入ってもおかしくはないだろう。まあ、どう報告すべきかを悩んでいる可能性は大いに高いが。
 そして予想通り、プルルルルとうるさいコール音。固定電話が声を上げた。確認するまでもない、自衛隊からの連絡だ。受話器を手に取り、平静を装った声色で話し出す。対して受話器の向こうは冷静さを欠いた声色。
 アメリカが消えました。その間抜けで、事実に忠実な報告に笑い出さなかった俺は褒め讃えられるべきだ。

「何を言っているんだ?」
『ですから、アメリカが消えたのです! 衛星でも確認出来ません!』
「そんな馬鹿な話が……!」

 ああ笑いたい。笑いたくてたまらない。こんなに面白いのに笑ってはいけないなんて酷い話だ。
 俺がそう堪えながら平静を装っていると、こんこんこんと冷静に扉をノックする音。こんな時間だ、他の人間の可能性は限りなくゼロに近い。となると解答の選択肢はミゼルの一択になる。まあミゼルでなかった場合は、誰であろうと平静を装えば済む話だと計算を終え、入って良いと手短に返した。
 耳は受話器に傾けたまま、静かに開いた扉と静かな足音、そして静かに閉められる扉でミゼルを確信する。だが今ミゼルに視線を向けると、堪えきれずに笑ってしまいそうだ。視線をデスクに落としたままぐっと堪える。とにかく平静を装いながら、こちらでも確認をするだとか何とかを告げ、ようやく電話を終える事が出来た。
 がちゃりと受話器を置いた音の後、ミゼルの低く艶のある声が呟く。「名演技でしたね」と呟かれたそれに、堪えていたものが溢れ出した。

「あはははっ! あー、はははっ! はあっ、ふふふっ、あははははっ! 無理っマジで俺名演技過ぎるだろっ! あーヤバイヤバイ、腹いってぇーっ!」
「消失を命じた張本人であり、消失の瞬間を見ていながらよくもまあ、あれだけの素知らぬふりが出来ますね」
「アカデミー賞でレッドカーペットを歩く準備が必要かもな。まあそのレッドカーペットを敷く為の地面がもう海の底なんだけどな!」

 一頻り笑って腹・喉・頬、更には背中にまで笑いの痛みを感じつつ、首をくるりと一周回す。こきこきっと楽しげな間接の音が耳に届いた。椅子の背もたれに身を任せ、視線と体を椅子ごとデスクのすぐ隣へ。静かに近付いていたミゼルへと向ける。
 翼も角も尻尾も、耳の先の尖りも見当たらない。黒かった白目は文字通りの白目に。その代わりと言わんばかりに、赤かった瞳は井戸の奥底のような漆黒に。髪の長さと髪型はそのままだが、赤かったインナーカラー部分は黒髪に。スーツはそのまま。両手は爪を隠す為か白い手袋で覆われている。
 私は人間ですよ。そうわざとらしい程に伝えてくる出で立ち。

「うーん、七十点だな」
「おや。これは手厳しい」
「髪型と手袋も擬態出来てたら百点満点二重丸花丸だった」
「髪型はこれが気に入っていますので」
「まあいい。あんまり人間そっくりになられるとミゼルらしさがなくなる」
「悪魔らしい方がお好みですか?」

 椅子の肘掛けに手をつき、ぐっと近付いてくる悪魔の顔。俺の採点に、にんまりと弧を描いた薄い唇。悪魔らしい方が好みかと言う質問に、俺は一瞬たりとも思考をしなかった。にやりと笑い返す俺の唇は、すらすらと言葉を紡ぐ。

「当たり前だろ。俺が唯一、相棒と認めた存在だ。ただの人間のふりをされちゃ意味がない」
「悪魔を相棒ですか。本当に旬は変わった人間ですね」
「それはもう言われ慣れてるから俺には効かないセリフだぞ」

 俺のすぐ目の前で、真っ黒なミゼルの瞳が赤に戻っていく。真っ白だった目が真っ黒に戻っていく。絶対に人間ではない証の目。俺を見据えた悪魔の目。
 物珍しいと言わんばかりに俺を面白がる悪魔の目。

「ではいっそ、元の姿のままでいましょうか?」
「それは困る。馬鹿共の馬鹿な言葉の相手はしたくない。全部が終わったらにしてくれ」
「承知しました。ではそのように」

 会話の区切りがついた頃、ミゼルは満足したと言わんばかりに、俺に近付けていた体を離す。そして、ミゼルの低い声のせいだろうか、微かながらも確実に眠気が駆けて来た。もしかしたら、相棒がそこにいる事への安心感のせいかもしれない。今まで一ミリたりとも得る事のなかった、理解者への安心感。
 くるくるくるくると回り続けていた頭も速度を落とし始めた。寝ている暇などないと言った側から、少しくらいは寝ても良いかと思い始める。明日の朝からは世界が大騒ぎだ。今のうちに頭を休めておくのも良いかもしれない。
 ああ、そう言えば悪魔は寝るのだろうか。眠っている悪魔はいまいち想像がつかない。なんてくだらない事を考えながら、目を閉じた。

「少し寝る。朝になったら起こしてくれ。明日……面白いものを一緒に見よう」
「はい。承知しました。では良い夢を」


◇◇◇


「はあー……ふふふっ……予想以上だな」

 翌朝、ミゼルの低く艶のある声で起こされた俺は、歓喜で身が粉々に砕けてしまうのではないかとさえ思った。
 鳴り止まない電話。届き続けるメッセージ。全局臨時特番のみになったテレビ。考察・混乱のSNSはサーバーダウン。米ドルの暴落。投資家の相次ぐ自殺。各国、自国民の出国禁止。色濃くなる軍事の匂い。
 俺が落としたいと願った、たった一滴に水滴は、確かに俺の望み通り大きな大きな波紋を水面に創り出していた。世界が慌てふためく様を見ているのは、本当に面白い。人間の本性が浮き彫りになる瞬間。

「あー……たまんねぇなー……」

 だが、まだだ。まだ足りない。もっと面白く出来る。抑圧を享受する世界に鋏を入れる。本能を解放させれば世界はもっと面白くなるはずだ。
 昨日のうちに連絡を入れた二人は話がついた。軍隊の動きがすぐに活発になるだろう。目の上の瘤が消えた国から動き出す。そして大きな国が動けば小さな国も動かざるを得ない。この世の事象とは、どこかで全てが繋がっているのだ。
 最初の引き金を引くのは、中国かロシアかインドか、はたまた北朝鮮か。ああ、どこでも良い。その一発目を撃ってくれ。じゃないと面白くないんだ。
 悪魔に魂を売ってまで得た一滴。最後の最後まで楽しまなければ。

「ミゼルは最初の一発、どこが撃つと思う?」
「そうですね、私は人間の世界情勢には疎いものですから……順当に行けば中国でしょうか?」
「じゃあ俺はイスラエルに賭けようかな」
「おや、悪魔に賭けを挑む気ですか?」
「相棒との賭け程、楽しいものはないだろ?」

 かちかちかち。壁に飾っている時計の秒針が歩み続ける。一分一秒が楽しい。ゴールポストはどこに置こうか。ああ、どこでも良いや。
 面白ければ、それで。

「チッ。負けたかー」
「勝利の褒美は何をいただきましょうか」
「魂以外で頼むぞー」

 ちぇーっと唇を尖らせる。期待通りの動きを見せてくれなかった国に対して恨み節を吐きながら、ノートパソコンのキーボードを叩く。
 賭けの結果発表は存外早かった。まあ状況を鑑みれば至極当然の動きとも言えるが、最初の一発を撃ったのは中国だった。誰よりも早く、台湾へと軍を差し向けた。賭けはミゼルの勝ちだ。人間の世界情勢には詳しくないと言っておきながら見事的中させたのは少々不服だが、こんな百人中・九十六名が不謹慎極まりないと怒るような賭けはミゼルとしか出来ない。負けも甘んじて受け入れよう。その上で、台湾が何日で掌握されるかを賭けるのも悪くないな。
 次いで動いたのがインドだった。その次がイスラエル。そしてロシア。ここまで動けばもう誰にも止められない。剥き出しの欲望のぶつかり合い。血肉を浴びて食らって、残虐を極めた国がトップに立つ。

 ――第三次世界大戦の開幕だ。

「さて、そろそろ中国が日本に手を伸ばすだろう」
「ええ。台湾は掌握したようですしね」
「勇敢でリーダーシップのある総理大臣の姿、笑わずに見てくれよ?」
「善処します」

 ネクタイの曲がりを直し、壇上に上がる。国民にとっては大事な会見。俺にとっては単なるスパイス程度の会見。台湾が掌握されるのも、そう長くはかからなかった。今回は賭けは俺の勝ちだった。
 そう、大軍は勝利の勢いそのままに、その矛をこちらに向けてきた。次の獲物はこの国だと牙を剥いている。まさに危機的状況と言えるだろう。
 なのに。もうすぐそこまで戦争のタップダンスが聞こえていると言うのに。この国ではどこまでも、どこか他人事感が抜けないのだろう。カメラを構え、ぱしゃぱしゃと暢気にフラッシュをたく各種メディア陣に笑いそうになった。
 俺を捉える数多のフラッシュが眩い。ここはさながらアカデミー賞の授賞式会場のようだ。
 口角を三ミリ下げ、眉間に二ミリの皺を作る。眉尻を四ミリ上げ、まばたきの回数を通常の三分の一に減らし、ゆっくりと唇を開いた。どこかの記者が息を呑む間抜けな音が微かに耳に届いた。

「現在、我が国は未曾有の危機に瀕しています。にわかには信じ難い、アメリカの消滅。それにより今世界は、第三次世界大戦に突入したと言えるでしょう。自分達の国は自分達の手で守らねばならない。そんな時が刻一刻と迫っています。無論、我々政府も手を拱いている訳ではありません。あらゆる対策を検討し、実行しています。しかしそれだけでは間に合いません。故に、恥を承知で皆さんにお願いしたい。国を守る為にどうか、皆さんの力を貸してください! 私、入江旬は我が国のトップとして、決して国民を見捨てる事はしません! 皆さんを守る為、全力を尽くします!」

 偽りの呼吸。仮面にまみれた呼吸で作る、清廉潔白な入江旬の姿。皆が望む姿。それを意識的に見せているだけで、皆が勝手に喜ぶ。この世界には馬鹿ばかりなのだと何度も何度も実感する。
 そして、こんなくだらない言葉に何の意味もありはしないのに、人間から湧き上がるエネルギーを感じる。ミゼルと契約したからだろうか。この場にいる人間から、この会見を中継している画面の向こうから。俺の演技で動く駒のエネルギー。よく出来たスパイス。眩いフラッシュが歓声のように思える。すぐそこにミゼルがいるせいか、笑い出してしまわぬようにするのは存外骨が折れる。
 ああ、全力を尽くすさ。俺が楽しむ為だけにな。

 手短な質疑応答を終え、静かに息を吐き壇上を下りる。カメラも馬鹿の目もない舞台袖、ようやく飾らない呼吸が出来た。動かしていた表情筋を元に戻すと同時に、音もなく俺の隣に立ったミゼルが笑う。「笑わずに見るのに苦労しました」と言って。それに釣られるように俺の口角が上がり、笑い声が口からこぼれる。
 すっと上げた左手。それに合わせてミゼルの右手が上がる。素肌と白い手袋が、ぱんと軽いハイタッチを交わした。

「ふー、これでようやく自衛隊を自由に動かせる」
「危機を待つと言うのも、なかなか面白かったですよ」
「スリルがあるだろ? さあ、大胆に遊ぶぞ」

 元来より、城攻めとは攻める側が不利である。相手側の方が仕掛けや地形を熟知し利用する上、攻め込む兵士の数は守る側の倍数は必要とされているからだ。それが戦争の基本のキである。国盗りも同じだ。盤面が大きくなっただけ。
 どれだけ時代が進もうとも、基本は変わらない。籠城する方が有利なのだ。相手側に連戦の疲れや物資の不足が目立ち始めれば尚の事。こちら側が、勝利や援軍などを全く考慮していないのであれば尚の事。

 陸・空・海。どこを取っても撃退は上手くいった。まあ、撃退するだけなのだから当たり前と言えばそれまでなのだが。
 向こうは台湾を掌握してから、士気が下がらぬうちにとこちらに向かって来ている。古来より戦争において兵士の士気は重要だ。その選択は間違いではないだろう。地続きだったのなら、だが。
 そもそも台湾も四方を海に囲まれた島。つまり外から攻めづらいが、内から逃げづらくもある。だからこそ、素早い初動で混乱に乗じた物量押しは有効打になった。しかしそれ故にこちらに来た頃には疲労はもちろん、物資の不足も見受けられた。混乱に乗じた物量押しは、所詮は初見殺し。第三国からすれば、種が割れている手品と同じ。恐れる理由もない。
 故に撃退は上手くいった。こちらの被害も想定内で済んでいる。

 ――しかし、面白くない。

「同じ事の繰り返しだ。兵の士気も下がる。俺のやる気も下がる」
「ですが旬、ここまで戦争が広がれば、どこに行っても同じようなものかと」
「そうなんだよ、もうどこに行っても同じなんだ……」

 ミゼルの尤もな言葉に溜め息がこぼれ、眉尻が自然と下がる。椅子にだらりと体重を預け、天井を見上げた。
 何事も男女の交際と同じだ。始まる前の、何をしようか思考している時間が一番楽しくて、始まってすぐは色鮮やかな新鮮さに心が満たされる。だがそれもしばらくすれば、味がしなくなる。変わり映えのない日々に退化してしまう。ただの日常へと退化してしまう。
 世界大戦の幕開けは、俺の楽しみの終わりの始まりでもあった。

 戦争の糸を引くのは面白かった。こんな地球全てを巻き込んだ戦争など当然未体験。目新しさに満ちている。どこをどう動かすのか、どこがどう動くのかを考え、観察するのが面白かった。戦争が始まった時も面白かった。血肉飛び散るリアル極まりないサバイバルゲーム、俺が呟いた一言で誰かが死ぬのが面白かった。
 だがそれももう同じ事の繰り返しだ。単調過ぎる。刺激が足りない。今更どこでどう暗躍したところで、見られる景色は然して変わらない。メニュー表通りのものがテーブルに並ぶだけ。そんなものは食べても味がしない。ゴミだ。
 つまり別の何かが必要だと言う事。この刺激に飢えた心を満たすもの。そう、ゴールポストの配置場所が。
 終わりを思考した俺の頭に、たった一文字が過った。

「ミゼル。次で終わりだ」
「もうよろしいのですか?」
「ああ。十分楽しんだ。次はお前が腹を満たす番だ」

 三日月のように、深く深く弧を描いたミゼルの薄い唇。それを見ても最早、恐怖も不快感も後悔も湧かなかった。
 ミゼルの笑みを横目に最後の暗躍を始める。人類史上最悪の戦争兵器。核のスイッチを押させる為に。どこでも良い。押してくれさえすればどこで良い。抑圧の殻は切り裂いてある。剥き出しの欲望など、たったの一吹きで止まらなくなるものだ。

 ふーっと吹いた息は、フランスのスイッチをロシアに向けて押した。


◇◇◇


「面白かったなあ。あー、楽しかった」
「それは良かったですね」

 核のスイッチまで押されれば、あとは世界が滅ぶだけ。もうどこにも人間を人間たらしめる理性など残っていない。
 温かなオレンジ色の夕日が落ちていく空の中。俺の眼下に広がる世界は確かに壊れていて、俺は確かにそれを特等席で見届けたのだ。

「これ以上に面白い事がどこにある」

 沈んでいく夕日を背に、ミゼルの隣で満面の笑みを浮かべた。以前に地面を見下ろした時は、ミゼルの腕に抱えられながら空を飛んでいたが、空に立つ今も悪くない。透明で薄い床を踏んでいる感覚。どう言う仕掛けなのかなど、最早聞く必要はないだろう。
 こいつは悪魔だ。人間ではない。それ以上もそれ以下もないのだから。

 さあ、俺の魂の終焉だ。

「ミゼル、これで契約は終了だ」
「ですね」
「ほら魂でも何でも持っていけ。まあ、出来れば痛くなくしてくれると有難いんだが」
「最後まで注文の多い人間ですね、旬は」
「お前なあ、契約の時どれだけ痛かったと思ってんだよ」
「それがその最中に笑っていた人のセリフですか」

 蝙蝠のような翼も、蜷局を巻いた大きな角も、先が少し尖った耳も、赤の混じった髪も、ゆらりと揺れる尻尾も、漆黒の爪も。井戸の奥底のような黒と地獄の入口のような赤の目も。
 体の向きを変え、正面から向かい合ったミゼルが人間への擬態を解く。「私は悪魔です」と言わんばかりの姿に戻ったミゼルを見て、心のどこかが安心感を覚えた。それはまるで、久しぶりに会った親友のような安心感だった。悪魔を見て安心感だなんて馬鹿げた話だが。そんなものはきっと、どこの神話や童話を探し回っても書かれていない一文だろう。
 ああ、俺は確かに、悪魔のミゼルを好んでいた。

「こんな人生の最後に、お前みたいな最高の相棒が出来て良かったよ」
「悪魔を相棒と呼ぶのは貴方くらいですよ」
「変人か?」
「ええ、変人です」
「ははっ! 悪魔にお墨付きをもらえたなら光栄だな。胸を張って変人を名乗れる」
「誰に向かって名乗るんですか」
「うーん、地獄?」

 おかしそうに笑ったミゼルに釣られて俺も笑う。眼下の壊れた世界と夕日のハーモニーは、不協和音で美しい。自分で壊したくせに、人生の最期をこんな景色で迎えられる事を光栄に思えた。
 瞼を閉じて、ミゼルと出会ってからの六週間を思い返す。
 面白かった。楽しかった。自分と同じレベルの頭と性格で、一を言えば十が伝わる悪巧み仲間。相棒。理解者。色を失くした世界に色を落とした相手。死んでいた俺の心を生き返らせた相手。
 それがたまたま人間ではなく、悪魔だっただけ。

「ミゼルに魂を差し出したら、もう生まれ変わる事もないのか?」
「はい。輪廻転生の輪から外れ、二度と転生する事はありません」
「そっかー。まあ死んだ後の事なんてどうでもいいけどな」
「怖くないのですか?」
「怖い訳ないだろ。死んだ後の知覚出来ない事なんて、そもそも怖がりようがない」

 旬は本当におかしな人間ですね。ミゼルの笑い声でそう紡がれた言葉に、「今更だろ」と返した。そしてその後すぐに、真剣な声色が耳に届く。これが最後なのだ。もうこの低く艶のある声を耳にする事もなくなる。
 瞼を閉じたまま、「じゃあな」と呟いた。やってくるかもしれない痛みに覚悟をした。

 だが、一向にその足音は聞こえない。もしや痛みも何もなく一瞬で終わったのだろうか。そう思い瞼を開いてみるも、眼下に広がるのは先程と同じく壊れた世界。俺の目の前には、にんまりと弧を描くミゼル。
 夕日はすっかり沈んで、空が黒に染まり始めていた。

「……俺は死んでるのか?」
「いいえ。生きていますよ?」
「は? どう言う事だミゼル」
「旬にはしてもらいたい事があるのです」

 当たり前に「まだ生きている」と伝えられ、俺は意味が分からないと顔に出す。しかしそんな俺の表情など意に介さず、ミゼルは手を後ろ手に組み、俺の顔を覗き込んだ。黒と赤が俺を捉える。眼下の壊れた世界の音が聞こえないような、俺の鼓動しか聞こえないような、静寂に包み込まれた。
 にんまりと弧を描いたミゼルに息を呑んだのは、「面白い」への期待が見えたからかもしれない。

「実は、天界もつまらないのです」
「……つまらない?」
「ええ。停滞の世界と言っても良いでしょう。争いもなく、何かが生まれる事もなく。単調そのものなのです」

 曰く、神は争いを禁じたらしい。世界各国どこの神話を見ても、神は神と争っていた。誰しもが何かしらで、争い合う神の話を耳にした事があるだろう。それらはほぼ事実らしい。
 しかし神の争いは下界、つまり俺達の世界へと大きな影響を及ぼしてしまう。災害・飢饉・病から、人間の精神にまで。故に神は争いを禁じた。高次の存在である自分達が襟を正さねばならないと。
 結果、天界は平和になった。争いのない楽園のような世界になった。誰もが羨み望み求め目指す理想郷になった。

 ――ただし、それは退屈を極めた。

 平和と言えば聞こえは良いが、綺麗なラッピングを剥がして蓋を開ければそれは、「何も起きない」と同義だ。毎日が同じ事の繰り返し。朝・昼・晩を繰り返すだけ。
 存在の意味を奪うだけ。

「ですから私は旬、貴方に目をつけたのです。退屈を最も嫌う貴方なら、私の退屈を壊せるかもしれない、と」

 ミゼルの薄い唇から紡がれる言葉に、心が騒ぎ出す。音量をどんどん上げ始める。まだあるぞ。まだ面白い事が転がっているぞ。
 もっと楽しめるぞ!

「それは、天界を破壊しろって事か?」
「そうとも言えますね。貴方が私に望んだように、私も天界への一滴が欲しい。誰もが羨む理想郷を、この眼下の世界のようにしたいのです!」

 両手と翼をばさりと広げたミゼルが笑う。ミゼルの吊り上がった口角は、まるで鏡を見ているようだった。

「まあ、そもそも今回の件で私は天界の裁判にかけられますから、貴方には証人として出てもらわねばなりません。ですのでまだ貴方の魂をいただく訳にはいかないのです」
「ははっ、なんだそりゃ。天界に裁判まであるのか」
「ええ。ちなみに罪状は……ふむ、神罰乱用罪に当たりそうですね」
「いや絶対殺人罪もつくだろ」

 ミゼルが顎に手を添え思案顔をしたのちに、聞いた事もない罪名を告げる。その内容にツッコミどころがあり過ぎて、思わず指摘を入れた。まあそもそも神の世界に「殺"人"罪」と言うものが存在しているのかは不明だが。てか神の裁判って何なんだ。
 俺の指摘が面白かったのか、ミゼルはおかしそうに笑ってから少し乱れた呼吸を整える。黒と赤がまた俺を覗き込んで、捉えて、見据える。

「旬。貴方に、神を敵に回して遊ぶ覚悟がありますか?」

 ぞくりとした。期待への興奮で背筋に衝撃が駆け抜ける。頭が回転速度を上げ始める。にやりと口角が吊り上がる。

「これだけ人間相手に遊び回ったんだ。次は神くらいじゃないと楽しめないだろ」
「貴方ならそう言うと思っていました」

 俺の返答にこの六週間で一等の満足げな笑みを見せたミゼルは、すっと人さし指を立てた。とん。ミゼルの人さし指が俺の胸を軽く突く。それが意味する事はすぐに理解出来た。六芒星の契約だ。そして理解と同時に、あの熱と痛みを思い出す。ミゼルの指が規則的な直線を描く間、激痛への覚悟を積み上げた。
 大丈夫だ。初めてじゃない、もう二度目になる。一度経験した事は想像の域を出ない。それにこの痛みを乗り越えれば、次はもっと面白い事が俺を待っている。耐える事など苦ではなかった。
 しかし覚悟した痛みはこなかった。代わりにじんわりと心臓が温かくなる感覚がした。湯舟に浸かったような心地良い温かさ。それに、もしやと思いミゼルを睨むが、当たり前のように笑って返される。「痛みの調整が出来ない訳がないでしょう」と。

「お前なあ……! じゃあ最初の時もそうしろよ!」
「痛みがある方が人間は悪魔との契約を実感するのですよ。旬もそうだったでしょう?」
「……それはそうだが……」
「それに安心してください。死なない程度の激痛にしていますので」
「どこに安心出来る要素があるんだよ」

 激痛の種明かしに苦情を申し立てたが、結局はミゼルの意見に合理性の軍配が上がってしまった。痛みの意味を納得しつつ、Yシャツのボタンを開ける。
 丁度心臓の上。赤い線で描かれた六芒星が肌に刻まれていた。どうやらミゼルは意見を取り入れてくれるタイプらしい。どうせなら見える所にも欲しかったと呟いた俺の意見を、きっちり反映してくれたようだ。
 墨をぶちまけたような真っ黒な空と、きらきらと輝く月と星屑の中。ふわりと吹いた風でYシャツが揺れる。赤い六芒星が見え隠れする。ミゼルの目は変わらず、俺を見据えていた。

「旬。悪魔との契約は絶対。逃げる事は出来ない。その魂はすでに我が物である事を、ゆめゆめ忘れぬように」
「こんな分かりやすい所に刻まれたら、忘れたくても忘れられないだろ」

 最初に契約した時に聞いた言葉。もう一度改めて伝えられたその言葉に、思ったままの言葉を返す。俺の言葉でミゼルは一瞬目を丸くしたが、すぐに楽しげに笑っていた。
 ミゼルが言いたい事はすぐに察した。改めて告げられた意味。それは単なる魂の所有の話ではない。今回の契約は先のものとは違う。すぐ終わるものではない。いつ終わるかなんて分からない。
 つまり、この契約から逃れる事は出来ないと言う事は、契約を完了するまで生きるも死ぬも出来ないと言う事。
 契約に俺と言う存在を縛られると言う事。
 ミゼルから離れる事が出来ないと言う事。

 だがそれがどうした。この契約に存在を縛られるのは俺だけじゃない。俺がミゼルから離れられないように、ミゼルも俺から離れられないのだ。ならば立場は対等。何の問題もない。

 ――何も変わらず、俺の相棒だ。

「天界、どう破壊する?」
「そうですねぇ……出来る限りの悲鳴が聞きたいですね。神の悲鳴でオーケストラをしたいです」
「お前やっぱり悪魔だわ」
「おや、手厳しい。旬は聴きたくありませんか?」
「ふざけるな。聴きたいに決まってるだろ」

 月に向かって二人で歩き出す。空は黒が広がっていた。月と星屑がきらきらと輝いていた。

 もう朝はこない。

「天界を破壊した後はどうしましょうか」
「冥界創造の契約でもするか?」
「良いですね。ふふ、旬といれば私の中から退屈と言う言葉が消えそうです」
「俺もミゼルといたら退屈って言葉が頭から消えそうだわ」


end


この物語はフィクションです。
実在の人物・団体等とは一切関係がありません。
また、犯罪・差別・戦争を肯定・助長する意図もありません。


最後までご覧いただき、ありがとうございました。
これが、壊れた人間フェチ&歪で深い関係性フェチを拗らせた結果です。


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