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187. 工作舎「最後に残るのは本」 【エッセイ集】

刊行されてわりとすぐに買って、一年後くらいに読んで、それから感想を書こう書こうと思いながら結局書けないまま今日まで来てしまった本。
メモを頼りに感想を書き起こそうと思っていましたが、さすがにさっぱり覚えていないので、メモを頼りに改めて読み返しつつ、今の感想を書いてみようかなと思います。

この本は工作舎の50周年記念に、2021年に出版された随想録です。
工作舎という出版社は自然科学や人文、芸術などの分野の本を刊行していて、学術的かと思いきやオカルトとか空想も取り混ぜた、一種独特なラインナップでわたしの好きな出版社の一つ。
デザインが独創的で素敵な佇まいの本が多いのも特徴で、この本も背がクロス張りで題字が金箔押しと何とも品のある装丁です。

その工作舎の出版物に挟み込まれていた「土星記」という新刊案内がありまして。
そこに連載されていた「標本箱」という”本”や”読書”を題材にしたエッセイのうち、67編を収録したのがこの「最後に残るのは本」なのです。
こうして書いてみて、新刊案内というその時その時を振り返る歴史の意味合いと、本とは何か改めて考える現在・未来を見据える視線が、50周年の節目にふさわしい内容だと感じました。(読んでいるときはそこまで頭が回らなかった)

「土星記」は紙もデザインもこだわり抜かれているので、そのものを読む楽しみもあるのだけれど、こうやって1冊の本になっているのも、それはそれで面白いし何より読みやすかったです。「土星記」はデザイン重視なのでわりと読みづらいものも多いので……。

執筆陣には知っている人も知らない人もいたけれど、そういうことは抜きにして、単純に読んで面白かったり発見があったりしたエッセイについて、ちょっとした感想など。

・梅園とブロンテ姉妹 木村龍治
江戸時代の思想家・三浦梅園も、「嵐が丘」などで有名なブロンテ姉妹も名声を得ているのにうら寂しい所に住んでいたことから、どこにいようとそれを求めさえすれば書物は人に膨大なエネルギーを運んでくるのだという筆者の気付きが書かれている。

この三浦梅園という人物、初めて知りました。
”日本の西洋化が行われる以前に、普遍的な自然法則について深く考察したほとんど唯一の哲学者”だと紹介されていて、気になります。
西洋哲学や中華思想は見聞きする機会も多いけれど、日本の”哲学”って何だろうか。
宗教的な思想でも、感覚に寄り過ぎてもいない”思想”について、詳しく知れたらなと思っています。

・再読の欲望について 池澤夏樹
タイトル通り、本を再読するということについて。

その中の一文に

詩というものが一度では読みつくせないはずで、再読できない詩集はもうそれだけで詩集としての資格に欠けると言ってもいい。

とあって、ははあと唸ってしまった。
わたしは自分の創作物が、詩だという意識はあまりなくて。でもあまりにも読んでくれた人からこれは詩だ、とか詩的だ、とか言われるので小説というよりは詩なのかもしれないと思いつつよく分からないまま書いているのですが。
しばしば言われることとして、
何度も読まないと分からない、何度読んでも分からない、だから何度も読んでしまう
というような感想が多いのです。だから、再読できる、させられる点のみで言えば、わたしの文章は立派に詩の資格があるようです。(無論、詩以外の文章だって再読することはあるし、このエッセイでは寧ろそちらに比重が置かれているのですが)

ところで今月号のユリイカの投稿欄にあった、ZZ倶舎那さんという方の階段の詩の情景が好みで、あれは何度か読み返したくなる詩だなと思っています。
楽しめる詩に出会えることはそう多くないのですが、最近は良い出会いが続いている気がします。嬉しい。


・黙読の誕生 池上俊一
少なくとも西欧において、中世まで本とは音読しなければ読めないものだったのだそうです。今一般的な、一人一人が本と向き合って静かに黙読するスタイルが普及したのは14、5世紀のことだとか。

わたしは圧倒的に耳で聞いた言葉を理解するのが苦手で、TVのアナウンスなんかも何を言っているのかよく分からないまま聞き流してしまうことが多々あるので、黙読の時代に生まれて本当に良かったです。
それとも、こういう時代に生まれたからこそ、これほど聴覚による認識がうまくいかないのでしょうか……?
今振り返ると、学校の授業などでも、果たして先生の話をきちんと理解しながら聞けていたのか甚だ疑問です。あの頃は音への解像度が高かったのだろうか。

・読み人知らず 佐倉統

歌人・島木赤彦の万葉集の講義は、歌をひとつ詠んでは、本を閉じ、宙を仰いで、「いいですなぁ……」と嘆じる。その繰返し。それだけ、だったというのだ。

そう母から聞いた著者が、高校生の頃は何それ!?と思ったが、改めて考えるとそんな講義ができるなんてものすごいことなのではないか、と感じたという話。

感動を他人に伝えるのは難しいという話だけれど、伝えるのが難しいのは何も感動に限った話ではなく、感情や感覚にまつわること全般、共有できないものです。
言葉は不完全なものだし、よく言われるように人によって見えている色は違うのだろうし、聞こえ方、感じ方、考え方は千差万別で、誰かの感覚をそっくりそのまま受け取るなんて無理な話。

そういう伝わらなさは苦しいしもどかしいけれど、自分にない感覚を知るのは時に楽しいし、各々違っていることは豊かさでもあると思います。しかもこの講義では言葉で表現しようとしないから、誰かを否定することもなくとても穏やかでピースフル。
まあ講義でひたすら歌を嘆じるのはどうかなとも思いますが、気のおけない友人などで集まってこんな具合に思い思いに歌を詠むのは味わい深そうです。

・本と鏡 谷川渥
本の中に別の本が出てきて、それが鏡のように相互に関係しあって、物語を進行させていく現象についての考察。

オスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像」に出てくる
ユイスマンの「さかしま」に出てくる
「アーサー・ゴードン・ピムの冒険」
が描かれているマグリットの「不許複製」
……

どこまでも続いていきそうな、めくるめく関係性にくらくらしてしまいます。
この関係性を頭に入れた上ですべてを通しで読んでみたい。


・出会いと関係性の読書 風間賢二
上の話を拡大したような(実質は違うのだけれど)話が、これ。
一冊の本からそこに出てくる本以外にも、著者が影響を受けた作家や関連作品を辿っていけばどこまででもいけるし、常に新しい作家に出会えるという話。
こういう関連付けをハイパーテキストと言うそうです。

そんな関連性を延々と遡っていくタイプの人が真のコレクターになるのでしょう。
わたしは好き嫌いがかなりはっきりしているから、作家が影響を受けた作品でも趣味に合わなければ見ないし、作家のことを知るのも楽しいけれどどちらかと言えば作品だけで完結してそこに没入している方が好き。コレクションが偏りまくるのはそういう所以だよなあとしみじみしました。
ただ、読んでいるうちに好きなもの・許容できるものの幅が広がって多様な楽しみ方ができるようになることを、最近の漫画の爆読みで学んだので、もしかしてそもそもの読書量が少なすぎるわたしはせっせと読書に励めば次第に真のコレクターに近付いていくのかもしれません。

・赤道書店への道 港千尋
南米に生きる辞書の行商人の思い出話。
辞書の行商の旅がとても魅力的で、

コロンビアで辞書を仕入れ、アマゾンの奥地やアンデスの高地など、できるかぎり僻地を通って、小さな書店や学校や教会に売って歩く
半年かけて往復すれば、残りの半年は遊んで暮らせる

「営業」という職種名をつけると途端にしんどそうなイメージが先行してしまうけれど、旅をしながら本を届ける仕事、と聞くとなんて素敵なんだろうと思うから不思議です。
自分が心からいいものだ、と思っているものをそれが必要な人や求めてくれる人に届けることも、旅をしながら暮らせることも、憧れる生き方だなあ。
営業以外にも、個人書店や移動式の図書館なんかが近しい役割を担っているのでしょうが、湊さんの文章からはインターネットが普及していなかったからこそののどかさや喜びが窺えます。


色とりどりのエッセイが並んだ後、巻末には当時工作舎で手伝いをしていたデザイナー・祖父江慎さんと編集長の米澤敬さんの対談が載っています。当時の裏話やデザインの苦労話が盛りだくさんで、こちらも読み応え充分。
特に様々な書体を使ってみようと、古本から集めた活版活字を拡大・縮小して貼り替えたという話には驚きました。デザインへの大変なこだわりが、読者を引きつける誌面を作り出す。そうだろうなとは思いつつなかなかここまでできる人というのは多くないのではないでしょうか。

ところでこの本の発売当時、帯の応募券を集めて応募するとプレゼントが当たる懸賞をやっていて、応募したらたまたまトートバッグが当たりました。黒地に白のケプラーの宇宙模型図柄。使いやすくて、ついこの間まで持ち手が擦り切れるまで使いました。ありがたや。

メモを頼りに読み返してみると、昔自分が何かを感じたらしいところで、今回は特に何も思わないことも多々ありました。またじっくり読み返すと別のところに驚きがあったりするのでしょう。
読書とはそういうもの、何度も読むのも楽しみの一つ。それがいつになるかはちょっと約束できかねるけども……またいずれ。

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