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「写メする」は 死語のフリして生き残る

昨日の記事を書いた直後から、なんだか妙な違和感に襲われていた。
なんてこともない、いつもの私の記事。しかしなんだか気になる…。
何度も記事を読み返していると、なるほど原因がわかった。

記事のタイトル「仕事帰りに夕暮れ空を写メする余裕を」
あれ?でも待てよ…。
「写メする」なんて、世間的に言えばもう死語なんじゃないか。

私は日頃のクセから、ただ夕暮れ空をスマホで撮影した行為を、「写メする」となんの迷いもなく表現してしまった。
これはよく考えると、とてもおかしいことだ。
その写真を誰にもメール送信したわけでもないのに、「写メする」。
普段から間違った使い方をしていた。

「この前、街中で有名人と写メしてもらったんだ」
「この料理、とても美味しそうだ。写メしておこうかな。」
「君の新しい恋人、気になるなぁ。写メ持ってないの?」
でもどの例も写真を撮っただけで、メールなんてしていない。

もちろん、昔は言葉通りの意味で使っていたと思う。
ケータイにカメラ機能が搭載された当時、「写メール」という言葉が流行した。
私も学生の当時、「データフォルダ」からくだらない写真をせっせと添付し、友達に送ったものだ。

しかし時は経ち、先述したように今はただ単にスマホで撮影することを「写メする」と呼ぶようになった。
もっと言えば、そもそもメール自体を使わなくなった。
友達や家族との会話はほとんどLINEだ。
ただ、これに関しても問題があって、私は相手にLINEでメッセージを送ることを、「またLINEするね」ではなく「またメールするね」と言ってしまう。
何故かはわからない。
「LINEする」という言葉がこっぱずかしいと言おうか…。
いやはや私もオッサンになったもんだ…。

「言葉はそれ自体に意味があるのではなく、私たち同士の会話のやりとりのなかで、はじめて意味を獲得する」
オーストリアの哲学者ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」という考え方だ。
「写メする」という言葉も、歴々と続く日々の”言語ゲーム”のなかで、気づかぬうちに私たちの手で意味を塗り替えてしまったようだ。
それでも「写メする」を、何の違和感なく使えてしまっているのだから、逆にコワい。

でも、ふと考えた。
普段誤用している「写メする」という言葉のなかに、本来の「写真をメールする」という意味のニュアンスが意外と密かに残っているのではないか。

人間は自分の気持ちを、他人と分かちあうことに喜びを見出す生き物だ。
夏目漱石が「I Love You」を「月が綺麗ですね」と訳したのは有名な話。
(これに関してはガセとも言われているが、ここでは触れない)
要は綺麗な風景や素晴らしい体験を他人と共有することで、お互いの距離が近づき、友情や恋愛の絆を育むことができる。
そう考えると、私たちが今使っている「写メする」という言葉は、表面上は本来の意味ではないにしろ、その写真を無意識に他人と共有したく思っているのではないだろうか。

誰に送ることもなく「写メ」し、写真で溢れかえったスマホのライブラリ。
写真たちは、案外他人とシェアされるのを待っているのかもしれない。

人はいつでもつながりを求めているのだから。

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