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小説:初恋×初恋

プロローグ

 待ち合わせの場所に遅れてくる男は信用できない。これは私が二十五年間生きて来た中で得た数少ない教訓。相川さんは約束の時間の十分前に姿を現した。十一月も終わりだというのに、やさしい陽が射していた。バス停のベンチにも、私の掌にも。



第一章      出逢い

 相川さんと初めて出逢ったのは、午前中の閑散としたスターバックスの中だった。私は一番奥のちょっと照明の暗いテーブル席に居た。相川さんはあとからやってきて私の斜め向かいに座った。それからノートパソコンを広げ、難しい顔をしながら操作し、何度もため息をつき、携帯で誰かと小さな声で話し、ちょっと声を荒げ、だけど直ぐに小さな声に戻り、静かに電話を切った。そしてしばらく目を瞑り、何かを思い出したようにノートにペンを走らせ、大きなため息をつき、ふと目が合い申し訳なさそうに頭を下げ、しばらくまたパソコンに戻ったんだけど、やがて画面を閉じ、小さく息を吐いて私の方を向き「何を読んでいるんですか?」と声をかけてきた。

 私はそんな一連の動作に耳を傾けつつテーブルの上の本に目を走らせていたからたいして驚きもせず、それに知らない誰かに声をかけられるのはたまにある事で、だからためらいもせずに「経済の本です」と答えた。でも実際に読んでいたのは「初心者の株式入門」で、ちょっと失敗したかなと思っていたら、相川さんはテーブルの上の私の本のタイトルをじっと見つめ「まだこれからですね」と言って笑った。その時の笑顔はさっきからの不機嫌な顔とは対照的であどけなく、でも深く刻まれた目じりの皺に男の人生の長さを感じた。

 それから相川さんは、テーブルと椅子を寄せて私の隣に座り、ロルバーンを開きミシン目に沿って紙を一枚切り取り、それに直線や曲線を描き、色鉛筆で色分けをし、何度か損益分岐点という言葉を使い、経済の仕組みを丁寧に教えてくれた。十分後に私は株がどんなものなのか、一時間の読書よりも深く理解はしたのだけれど、そんな事よりロルバーンに描く詳細な図形が気に入って、その中に私の為の特別な場所を見つけた気がした。

「経済に詳しいんですね。とても解りやすい。証券会社の方ですか?」と私は渡された紙に描かれた曲線を指でなぞりながら聞いた。相川さんはゆっくりと首を振り、周りを気にしながら「税理士なんだ」と小さな声で答えた。そして少し間を置き上目づかいに私を見た。私は向けられた眼差しの意味が直ぐには解らず、それからふと気が付いて「管理人をしてます。お婆ちゃんから引き継いだシェアハウスの」と答えた。相川さんは「若いのに管理人なんて珍しいね。一刻館の響子さんみたいだ」と言った。
私は「え?」と言うと相川さんは「知らない?」と言い、私は「知りません」と答えると、相川さんはとても残念そうに
「素敵な物語の登場人物なんだけど、管理人を続けるなら知っておいた方がいいよ」と言った。私は首を横に振って
「私には必要ありません。昨日で管理人、辞めたから」と言って、隣にある、荷物を詰め込んだばかりの真っ赤なキャリーバックに目をやった。相川さんも私の視線を追った。そして「もうあそこには居られないから」と付け足した。私はそう言いながら、センセイの顔を思い出していた。私を愛していると言ったのに裏切った男。そういえば相川さんとセンセイは年齢や背格好が何となく似ている。

「それで経済の勉強をしているんだ」と相川さんは言って、納得したように何度かうなずいた。そしてここで初めて名前を相川と名乗った。下の名前も聞いたけど直ぐに忘れてしまった。それよりも「アイカワ」という響きが心に残った。


初恋×初恋(その2)に続く


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