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小説:初恋×初恋(その8)


第六章 男女交際


「僕は失恋から思いのほか早く立ち直った。まだ若く信頼出来る友達も出来て、語るべき言葉があり、有り余る体力があったからだ。季節は冬だった。友達の一人が僕に女の子を紹介してくれた。彼女は僕を気に入って僕も彼女が気に入った。名前を歩未と言った。そして僕は彼女と付き合い始めた」

「久望子さんのことは諦めたのね」

「久望子の事を忘れてしまったと言ったら嘘になる。心の何処かにいつもいた。でも封印して思い出さないようにした。心の奥深くに埋め蓋をした。そして新しい恋をすることで辛い想いから遠ざかる事が出来た。
何はともあれ僕は初めて男女交際というものをした。楽しかったよ。勉強ばかりの暗い高校生活に彩りを与えてくれた。進学校で厳しい校風だったから、出来ない事の方が多かったけど。でもその中で僕らは愛を育んだ。その障害が、逆に二人の絆を強くした。お互いの意志を伝える手段には交換日記を使った。とても不便な時代だったのかもしれない。でも言葉をひとつひとつペンで紡ぐ事で僕らは気持ちを深めあった。いつか、と言う言葉が何度か使われた。不自由な僕らには便利な言葉だった。いつか手を繋いで街を歩きたい。いつか二人きりで映画を見に行きたい。そしていつか親の力を借りずに独り立ちした時、結婚しようと誓い合っていた。信じられないかもしれないけど、二人の子供の名前まで決めていたんだ。僕らの勉強机には、子供の靴が片方ずつ置かれていた。僕達は地元の同じ大学に進んだ。その頃の僕は歩未しか見えていなかった。真っ白なキャンバスに初めて色を付けたみたいに無垢で無防備で未完成だったんだ。だけど大学一年の夏、僕は歩未を失った。夏休みを利用して僕が一ヶ月の一人旅をしている間、待っていた彼女に好きな人が出来たんだ。どこにでもある失恋だった。僕よりも魅力的な男性が現れた。僕は持っていないけど、そいつは持っている。そしてそれを彼女が気に入った。ただそれだけの事だ。
でも当時の僕にはそれが理解出来なかった。歩未を許せなかった。僕たちの間にはいくつもの約束があったんだ。だから裏切られたと思った。僕は子供だった。女というものがわかっていなかった。もう少し僕に恋愛経験と言うものがあったなら、彼女の心変わりが理解出来たのかもしれない。でもあの頃の僕は自分の全てを捧げ、歩未の全てを受け入れていた。だから何の準備も出来ていなかった。薄い皮で覆われた細胞を鋭いナイフで切り裂かれたように僕は傷ついた。どうして良いのかわからなかった。ただ沈んでいくだけだった。何日も何週間も暗く深い穴倉に閉じこもった。生きる気力もなければ生きている実感もなかった。それでも気力を振り絞って穴倉から這い上がった。そして僕は歩未に懇願した。戻ってきて欲しいと。でも歩未の心は動かなかった。僕はまた穴倉に入って行った。再び僅かな気力が芽生えると歩未を取り戻すためにその気力を全部使った。でも彼女は断固拒否した。もうかつての僕の事を愛していると言ってくれた女ではなくなっていた。僕以外の他の男を愛する女になっていた。新しい男の事を話す時の確信に満ちた声。僕に対する他人行儀な台詞。そしてこれまでに感じた事のなかった距離。彼女は何かに備えるように常に一歩、僕との間をあけていた。そして会うたびにその距離は遠くなっていった。
恋が始まる瞬間は決められないけど、終わる瞬間は自分で決めるしかない。その年の冬、僕は歩未を取り戻す事を諦めた。そして大学を辞めた。行く当てもなく色んな場所を転々とした。東京、大阪、熊本、鹿児島。何処だって良かった。彼女から、そして彼女を感じる全てのものから遠ざかりたかった。高校の時の友達とも一切縁を切った。僕が転々とした先は中学の友達のところだった。歩未の事を知らない、歩未の話題を持ち出さない友達。一度は中学時代の全てのものと縁を切り高校生活を始めたのに。結局僕は、何一つ変わる事が出来なかった。遠回りをして転んで元の場所に戻った。元のつまらない僕に。彼らはそんな僕を快く受け入れてくれた。中学の時、柔道をしていたんだ。一緒に汗を流した仲間の絆は強かったんだと思う。僕はそれに甘えて暮らした。
新しい場所では気が紛れる事が多かった。目に写るもの、感じるもの、全てが新鮮だった。世の中は広く僕の知らない事ばかりだった。意識は分散され安らいだ気持ちになれた。だけど何かのきっかけで歩未の事を思いだした。そして歩未に触れる新しい男の手を思った。僕は激しく嫉妬した。上手く眠れなくなった。何日も何日も。昼夜が逆転し僕の神経は衰弱していった。身体も痩せ衰えて行った。そして何処で暮らしても同じ状態が続いた。一度そういう流れが出来てしまうと、元には戻れなかった。知ってるか?何も食べないでいると身体が動かなくなるんだ。ガソリンが切れた車みたいに動かなくなる。文字通り動かない。比喩でも何でもなく。僕はそんなギリギリの状態にいた。死にたいとは思わなかったと思う。生きる力は失っていたけど、死ぬ事だけは不思議と考えなかった。黒く塗られたみたいに思い当らなかった。
やがて僕は福岡に流れついた。頼れる最後の友達が居たからだ。そしてもう何処へも行くあてが無かった。彼のアパートを出たら最後、途方に暮れる事になると覚悟した。でも事態は何も変わらなかった。昼夜は相変わらず逆転し只生きているだけだった。食欲も睡眠欲もなかった。生きるための理由さえ見つからなかった。何の相談もなく大学を辞めた両親からは、ずっと逃げ回っていた。職人気質の父は僕を決して許そうとはしなかった。芸術家肌の母親だけが僅かな理解を示し、手を差し伸べてくれた。帰れる場所がある事だけでも有難かった。そろそろ潮時だと思った。区切りをつける時が来たんだ、と。
ただその前に清算が必要だった。ためらいもせず金を貸してくれた友達に迷惑をかける訳にはいかない。僕はアルバイトを始めた。昼間する力仕事だった。柔道をやっていたことがようやく生かされた。それは産まれて初めてする労働だった。自由を提供してその対価として金をもらう。そんな誰でもやっているようなことを初めてしたんだ。
僕はそこで事務をしている女の子と知りあった。彼女は新人の僕に鉛筆のある場所や報告書の書き方、現場への行く手順など細かく教えてくれた。周りを見渡すと若い男は僕だけだった。あとは日銭を稼ぐ為に来ている中高年の男達。その日の夜、彼女から近くの居酒屋に誘われた。支払いは彼女がしてくれた。僕達は帰り道が同じだった。次の日、彼女から好きだと言われた。帰りのバス停の前だった。握手するみたいに簡単に終わった。そしてその夜、家で食事をしないかと言われた。部屋に入ると意外に広く、一人暮らしの部屋には見えなかった。かと言って誰かと住んで居る様にも見えなかった。何となく男のにおいがした。何がある訳ではない。髭剃りも歯ブラシも無かった。ただかつてそこに有ったであろうものが残した空間的欠落がそこかしこにあった。それでも僕は彼女と寝た。告白の時と同じように簡単に終わった。そして朝、昨日とは違う自分に出会った。僕は回復した。ぐっすりと眠る事が出来た。適度な労働と疲労が僕を不眠という苦痛から開放し、睡眠と言う快楽の世界へ導いたんだ。次の日も彼女と寝た。その次の日も。安らかに眠るために。僕は友達のアパートを出て彼女のアパートへと移った。彼女の事が好きかどうかはわからなかった。僕が彼女に感じていたのは赤裸々なものではなく漠然とした塊のようなものだった。僕達はお互いを必要としていた。彼女は空間を埋める為に、僕は規則正しい生活を送るために。そういう始まりがあっても良いのかもしれないと思った。
やがてほころびが訪れた。彼女には三年間同棲し一年前大阪に転勤した遠距離恋愛中の男が居た。そして電話で別れ話を始めた。僕の居る前で。僕はその会話を聞く度に嫌な気分になった。原因が僕だからではなかった。僕は思い出していた。歩未との別れを。大阪の彼があの時の僕だ。男は彼女にすがった。それを彼女は無慈悲に振り払った。かつての彼への愛情など微塵も感じられなかった。一度は愛したはずの男への冷たい仕打ち。あの時の歩未の心の内側を見た気がした。自分は安全な場所を確保し、その後、余計な物を切り捨てる。相手がどんな想いで居ようと構わずに。
男が諦めると女はみそぎが済んだみたいに僕に甘えた。もう私達を隔てるものは何もないと。でも簡単に気持ちを切り替える事など出来なかった。そして別の感情が首をもたげた。僕はまた眠れなくなった。どんなに疲労しても駄目だった。隣に女が寝ている。小さな寝息。時々聞こえる意味不明の寝言。真っ暗な天井。僕は一緒に暮らす理由を失った。そしてずっと感じていた感情が大きくなった。
ある日、女がうたた寝をしているのを見た。疲れていたのだろう。椅子に座ったまま、上を向き大きな口を空けていた。僕は彼女の顔を上から覗き込んだ。開けっ放しになった口は頬の筋肉が弛緩し、唇はだらしなく歪んでいた。その内側に煙草で黄色くなった歯が見え隠れし、奥に黒いものが喉の奥まで続いていた。僕は科学雑誌で見たブラックホールを思い出した。そして何もかも吸い込んでしまうその穴に不吉なものを感じた。僕はこの女に何も感じていない。愛情も同情もどんな感情も。三ヶ月一緒に居ると言うのに。唯一感じるのは軽蔑だった。その感情は小さな種をまき、やがて大きくなった。心の中の何処かにある鍵が音をたてて動いた。小さく、でもはっきりと。僕は女の口の中をもう一度覗き込んだ。そして僕の心を見つけた。手で触れたみたいにはっきりと。僕はオンナを憎んでいた。彼女と言うよりも、男を自分の都合で簡単に裏切り、何事も無かった様にすまして生きるオンナを憎んでいた。
それでも僕は彼女と居続けた。何時もと同じ朝を過ごし、何時もと同じ夜を過ごした。ただ他に女を作っただけだ。近くのコンビニで働く店員だった。僕の方から誘い、僕の方から口説いた。僕は好きという言葉を久しぶりに口にした。だけどその言葉に気持ちは無かった。震えるような緊張も、浮き出る汗も、万感を込めた想いも。僕は何かを失くした。ずっと大切にして来てたもの。あたためて来たもの。それを握りつぶした。そうする事で僕は、心を偽る事が出来た。
コンビニの女に男が居る事が解ったのは、付き合い始めて何日か経ってからだった。僕はがっかりしたけど、嫉妬とは別の物だった。黒く淀んだ怒りに近い物。僕は女に愛していると言った。彼女を繋ぎとめておく為に。この台詞を言葉にするのは産まれて初めてだった。彼女が完全に僕のモノになると、また他に女を作った。簡単だった。久望子に告白した渡り廊下には、もう二度と戻れないと思った。僕は誰に対しても、何の感情も持てなかった。女達に対する憎悪だけが増した。僕は彼女達に愛していると言った。何度も言った。そしてその嘘が僕を別の場所に連れて行ってくれた。無防備で傷つきやすい軟な心を守ってくれた。僕は彼女達に何度も嘘をついた。そして何度も傷つけた。その度に僕の心は強くなっていった。と同時に心を無くした。純粋なもの、無垢なもの、子供じみたもの、全てを。いつの頃からか、歩未の事を全く思いださなくなった。思い出しても何とも思わなくなっていた。僕は友達に借りていた金を返し終わると、目的もなくただ生きているだけの日々を過ごした。出口のない不毛な毎日を、ただただ消費し続けた。そして再会したんだ。この街で。久望子に


相川さんは話し終わると私の方を見て力なく微笑んだ。それは自分の事を卑下しているように見えた。そしてそう思ってもらって構わないと言っているように見えた。でも私は相川さんを軽蔑する気持ちにはなれなかった。同情とは違う。共感とも違う。もっと別の何か。

「最低だけど、きっと仕方のない事だったのね」と私は言った。そして小さく微笑み返した。親密な空気が流れた気がした。きっと私の希望的観測なのだろうけど。


「今は僕も少し大人になった。今ならあの頃の彼女達の気持ちが理解できる。不安定で傷つきやすく、誰かに守られたがっていた。僕がもしその事を理解していたら、もっと穏やかなつきあいが出来てもっと穏やかな形で別れる事が出来ただろう。それが出来なかったのは全て僕の未熟で歪んだ心のせいだ。あの頃の僕は駄目になっていく自分を歩未に見せつけたかったんだと思う。あの人は私のせいであそこまで堕ちていったんだと思わせたかった。そんな薄っぺらな理由で僕は好意を持ってくれた女の子を理不尽に傷つけ、自分だけが永らえた。死ぬ事も出来ずに

「久望子さんに再会したんだね」と私は言った。相川さんはうなずいた。とても深く長く穏やかに、ゆっくりと。


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