読書日記 - 中国行きのスロウ・ボート

「わからない」ということのおもしろさを教えてくれたのが村上春樹だった。文章を読む、よくわからない、もう一回読んでみる、やっぱりよくわからない。さらにもう一回読んでみる、なんとなくわかってきたような気がする。一旦本から離れて、その文章について思考を巡らせてみる。やっぱりよくわからない。この、掴めそうで掴めない、もどかしい文章が、私はどうして無性に読みたくなるときがある。

村上春樹の小説を読んでいると、たったこの文庫本一冊で、一体どれだけ楽しませてくれるのかという気持ちになる。今回、この短編集を読むのは初めてだったのだけれど、きっとこの先何度も手に取っては、そのたびに新しい気付きがあって、好きになったり、イマイチになったりするのだろう。そんな本を一回読んだだけで語るのは、明らかに早計です。わかってはいるのですが、いま読み終えたこの感覚を放置しておくのは、あまりにももったいない気がして、「語る」なんて大それたことではなく、ファーストインプレッションをちょっと吐き出したメモくらいのものとすれば、許されるのではないかと、そんな気持ちで書いています。

この本には7つの短編が詰まっているのだけど、このあとは表題作の「中国行きのスロウ・ボート」に関することを少しだけ。

村上春樹の小説の特徴に、一文一文、そのシーン自体は理解できるのに、一歩引いてみると何が何だか全くわからないということがある。この短編も私にとってはまさにそうだった。何が起こっているのかはわかるのだけど、結局何が言いたかったのかよくわからない。でも、これはきっと癖で、本を読んでいると絶対なにかメッセージ的なるものが隠れているはず!と思い込んでしまって…(そうでない、ただ心地の良い文章があったっていいはずで、村上春樹の文章にはそういった要素も含まれている気はするのだけど)あれこれあれこれ考えながら読んでいると、ふと最後の文章に。

僕は数多くの中国に関する本を読んだ。それでも僕の中国は僕のための中国でしかない。

『中国行きのスロウ・ボート』(p.50)

これを読んで、主人公は3人の中国人に出会って、たくさん本を読んで、中国のことをいろいろ知っているけれど、それってあくまで彼の頭のなかの中国でしかない。あぁ、物事はなんでもそうで、きっとすべてのことが自分の解釈でしかなく、自分が見ている面以外の面が必ず存在するということなのかなと。もちろんこれも。そう考えると、これってまさに小説を読んでいるときのことだと思えてきて、今書いていることは全て私の憶測でしかなくて、全く別の解釈をした人が世界には山ほどいて、そのいずれもが作者本人の意図とは全く違うかもしれない。そういう小説の果てしなさにはやっぱり惹かれざるを得なくって、やっぱり私は本が好きだなと思う。

他にもたくさん考えたところはあるけれど、長くなりすぎてしまいそうで、あと一つだけ。別の短編で、商品管理係から届いた苦情に対する返事を「カンガルー通信」と名付けたところ、秀逸すぎて大好き。全てのものに名前をつけたらいろいろ愛おしくなりそう。やたらと取られてみるたび毎回萎えてしまう給与明細の税金の部分を、ハイエナ欄とでも呼びたい。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?