見出し画像

蹄鉄の経済学


 カワサキ少年は、動物が大好きだった。

 どれくらい好きかというと、犬も飼っていないのにドッグトレーニングマニュアルを読み込むほどだった。
妄想の世界では実に優秀なドッグトレーナーであった。ドイツ人も驚きである。

 犬を飼っている近所の友人が散歩をさせているのを見ては、
「リードの持ち方が甘い!」と内心突っ込み、
胸にチワワを抱きかかえる婦人を見ては、
「抱え方が甘い! ジタバタと飛び出したら危ないじゃあないの」
とPTA会長の保守的なママという前時代的イメージそのままに心配していた。

 鳥の名前や姿かたち、大まかな生態はもちろん、鳴き声でなんの鳥かすぐに分かるほど野鳥観察図鑑を読み込んだ。
もちろん図鑑から音は出てこないから、適当に鳴き声から連想される姿かたちを当てはめていただけなのかもしれない。

 それでもハシブトガラスとハシボソガラスの鳴き方や鳴き声の違いを再現できたし、鶏と烏骨鶏を鳴き分けることが出来た。
ウコッケイの鳴きまねは目の前で友人が驚いて声をあげながら足元を見るくらいのクオリティであった。
一度などはどこかの施設で鳴きまねをしたら、
友人の母が「あら、ここ、鶏飼ってるのねえ」と言うほどだった。
それも久しくしていないから、今は出来なくなってしまった。

 加えて嬉しいことに、地元には動物を専門とした学校があった。そこを出た学生がどんな職に就くのか、いまだに知らないが、小学生の頃、その学祭には毎年参戦していた。

 当時、私は蹄鉄が欲しかった。
なぜだかは分からない。しかし猛烈に蹄鉄が欲しかった。
馬のヒヅメに鉄を嵌める人に憧れていたのだと思う。あんなにガンガン打ち込むのに、馬は平然としている。神経が通ってないから当然なのだが、それにしたって大した勢いである。
私はそこに信頼関係を見て取ったのだろうか。
愛情関係を見て取ったのだろうか。
同様に猫や犬の爪を切る人の姿を見るのも好きだった。

 数ある出店の中で、門をくぐって間もないところへくじ引き屋があり、その商品のひとつに蹄鉄があるのを見つけた。
私はもちろん引いた。何度もなんども引いた。まるで当たらなかった。
くじ運がないのだ。ギャンブルにハマる気質だけは十二分に持ち合わせていることが、小学生ながらに理解された。

 出店のお姉さんは、どんどん目がすわって壊れたおにぎりロボットのように小銭を突き出してくる私の様子を気にかけたのか、あまりに蹄鉄を欲しがる少年を憐れに思い「当てさせてあげたい!」と言って、私の背中をそっと支え続け、ちいさくも小学生にはその存在の大きい小銭を投入し続けることを止めなかった。

 お姉さんやお兄さんの励ましを受けながら、盛大につぎ込んだくじ引きもついに、少年に応えてくれた。ようやく念願叶って、銀色に煌く蹄鉄を手に入れたのだ! 
出店は盛大に盛り上がった。

 「やったやった!」「よかったなあ!」「当たったあ!」

 少年は黙って照れていた。出店の人々の方が喜んでいた。安心したのだろう。私はみんなが喜んでくれているのがまた嬉しくて、蹄鉄の銀色の輝きが増していくように感じた。

 ほくほくの心で校舎に入り、梟や蛇を撫で、順次各部屋の催しを楽しんでいった私は、ある場所で立ち止まるとしばらく動けなくなった。眼が釘付けだった。


 蹄鉄が売っていたのだ。

 値札に書かれている数字は、くじ引きにつぎ込んだ総額のざっと三分の一である。三つ買える。そう思った。三つ買える。手元にあるのと合わせれば四つになる。馬一頭分の蹄鉄である。違う。そうじゃない。

 蹄鉄はラッキーチャームでもあるらしい。なるほどようやく勝ち取った蹄鉄は、同じ額で三つ買える蹄鉄に出会わせてくれた。違う、そうじゃない。

 もう小銭はないのだ。私は一本足の馬のように苦労して帰った。
学習机の引き出しにしまわれたその蹄鉄は、それ以来ふと姿を現しては私に経済を教えるのだった。その度になんともいえない気持ちで、少年はゆっくり引き出しを閉じるのだった。そして年末ジャンボを三枚だけ買う大人になった。


#エッセイ #雑文 #散文 #蹄鉄 #経済 #動物 #犬 #鳥 #馬 #梟 #蛇 #くじ引き #ギャンブル

「生きろ。そなたは美しい」