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帰国子女のハルさん

「今日から新しい人がいるから」

ある日出勤したら先輩スタッフにそう言われた。

「あそこで寝てる人。ハルさんって女性の人なんだけど」

ベッドを覗き込むと、小柄でピンク色のパジャマを来た実にかわいらしいお婆様がすやすや寝息を立てていた。
ひと通り食事量がどうだとか、トイレ介助の仕方がどうだとか、
申し送りを伝える中に


「あと、なんか帰国子女らしい」


というちょっと気になることを言った。

「へぇ、帰国子女・・・」

「ほら」

と言って、先輩スタッフは経過表を指さした。
――経過表とはその日の利用者さんの名が一覧になっており、食事量やらバイタルなんかが記録してあるの書付である。

『橋田とめ、高橋清蔵、鈴木鶴江、犬養辰之助』(仮)

とか、いかにも昭和初期を感じる名前の並びに

『ナカガワハル』(仮)


というカナ書きの名前があった。

曰く、
ハルさんはそのむかしアメリカに住んでおり、
それがどういう事情だか、何歳のときだか、いつまでいたのか? 
細かいことは謎なのだけれど、日本に戻ってはきたがアメリカ国籍らしい。
よって名前もカタカナ表記になっている。
とのこと。

ざっくり説明だけして先輩スタッフは帰っていった。

で夜中。
ハルさんは一切目覚めることなく眠っていたのだが――その翌朝。

一人づつ利用者さんの布団をめくっていき、
おはようございます、はーいおはようございます、と好青年(好中年)たる自分は気持ちのいい挨拶を交わしていった。

「はい、鶴江さんおはようございまーす」

「・・・・おはようございますぅ・・・」

「はい、清蔵さん、おはようございまーす」

「・・・んん、おはよう」

「はい、ハルさんおはようございますー」


「Good Morning」


「はい、ぐっもに・・・ぐ、も??」


不意打ちの横文字であった。

いや今日び別に、オッケーとかサンキューくらいの言葉を使うご老台もいらっしゃる。
自分が何に驚いたって、その

ネイティブすぎる発音である。

舌を巻いているあの感じ。絶対本格のやつ。早見優のやつだったのである。

なるほど。さすが帰国子女・・・・・とか思いつつも、
利用者さんを順番にトイレへ連れてって、布団仕舞ったりなんかしてバタバタしたあとで、次がハルさんのトイレの番となった。
ベッドを再び覗くと彼女は、先ほどめくったはずの布団をかぶって完全に二度寝へと没入していた。

寝起きの悪いお年寄りもいる。

しょうがないのでまた布団をペロンとめくって自分は言った。


「さーはい起きますよハルさん!」


とろんとした目でハルさんは


「Good Morning」


と、また言った。


「ぐっもーにんぐ・・・・」


とたどたどしく自分が答えたときには、ハルさんはもう目をつぶっており、
三度寝へ旅立とうとしていた。


「ちょちょちょっと起きて!」

「んーなにヨ」「起きてくださいっ」「Good Morning」「それもう分かったすから」「んんん、ナニ」「朝だからみんな起きる時間なんです」「だいじょうぶダヨ」「トイレへ行きますから」「だいじょうぶヨ」「いいから立ちますよ」


「No problemダヨ」


「・・・・・・」


帰国子女のせいなのか、もともとそういう性格なのか知らんけども、
はっきり言って、なんてわがままな女であろう。
といって介護施設というのは集団生活。体調不良でもなければ、一人だけ寝かしとくわけにいかぬ。


「立ってくださいほらっ」

「いいヨ」

「ハルさんダメですよーほら!」

「No problemダヨ」


「スタンダップっっ!」


自分の口から自然と英語が飛び出した。
これを訊くと、ハルさんは軽く両手を広げて


「Oh~No~」


ハリウッド女優のように言い、なんか知らないがちょっと笑って、ようよう起き上がった。
そのまま手引きでトイレに連れていく。

「はい。じゃここの手すりを持ってください。倒れないように」

と自分は指示した。
パンツをおろすとき不安定になり危ないので、手すりを持ってもらわないといけない。
ところがハルさんは

「だいじょうぶダヨ」

と言って、またしても拒絶へ転じた。

「いやいや、いいから持ってください」「いい、いいヨ」「ほら持つだけ」「No~」
「タッチ! 手すりをタッチ!!」


またしても英語を混ぜ込んだ。
するとやはり、ハルさん。
やれやれ的な雰囲気で、なんか知らけどちょっと笑って、ようよう手すりを持った。

この時点で自分は感覚的にこう思った。

『この婆様は非常にわがままであるけれど、
 自分のアメリカンな部分に誇りを持っており、英語を使用してコミュニケーションを取るとそこを刺激して素直に訊いてくれるのではないか?』

と。

その後すぐ、手すりをもったハルさんのパンツをおろす段になった。
その瞬間。

事件は起こった。


シャーーーーーーーーーーー


と変な音がするんで、まさかっ? と思って見てみると
そら見たことか
まだ便座に座りもしないのに、小水が股ぐらから真下に流れ出ていたのだった。


「ちょちょちょちょちょ!!」


「んー?」


なんて当の本人は出ていることすら気づいていない。


「だめだめだめ、座って座って座って! おしっこ出てる出てる!」

「No Progrem」

「やかましいわ座って!」

「ナーニ?」

言うこと訊かないハルさんの肩を、ぐっと下に押しながら自分は叫んだ。


「シッダンシッダン! 便器にシットダウンっ! おしっこ出ないプリーズっ!」


・・・・お前はルー大柴か

と周りにツッコでくれる人はいなかったが、
やはりアメリカンガール、ハル。素直にすーっと便座に腰をおろしたではないか!
床がびっしょびしょになってしまったが、これにより自分はひとつの悟りを得た。ことこのハルさん限定において

『英語介護法』

は大変有効であり、今後も実践していこうと。
――それから何か月もハルさんと接する中では『英語介護法』を意識した。

朝起こすときは

「グッドモーニング。スタンドアップ。ハリーアップ」

パンツをおろすと座る前に100%放尿するため
肩を最初から軽く押しながら、自分は連呼する。

「シッダンシッダンシッダウンっ! ハリアップハリアップっ! ノーおしっこ!」

そしてコーヒーが好きだということだったので
普通朝方お茶を出すところなのだが

「カフィー」

と言ってインスタントコーヒーを出す。すると


「Thanks」


というハルさんのきれいな発音が返ってきた。


――そんなハルさんがある朝。
朝食中であったが、ハルさんが一口も皿に手を付けず、
なぜだか一人しくしくと泣いて、涙を流していたことがあった。


「え? どうしたの? どうしたハルさん?」


女の涙にゃ男は弱い。驚いて自分は話しかけた。

「・・・うう・・・・・・・・・」

「ホワッツ・・・ハップン?」

英語介護法を利用して自分は尋ねた。


「・・・・・寂しいぃのぉ・・・・」


とハルさんは日本語で言った。

家族と離れてホームシックになっているのだろうか?
亡き家族のことを思ってか? 
第二の故郷アメリカを思ってか?
実はこのように泣き出す利用者さんはけっこう多い。
長い人生を歩んだ分、背負った悲しみも多いのだ。

カッコつけるわけではないが自分は手早くティッシュをばばっと二枚ほどとって


「ドンクライ」


といってハルさんに差し出した。


「・・・・んん?」


とティッシュを受け取らず彼女は言った。


「いや・・・・ドンクライ」

「ん・・・んん?」


通じていなかった。


自分としてはDon’t cry といってたつもりなのだが
ふつうに発音が悪くて伝わらなかったのか、「どんくらいでしょうか?」と意味不明な質問をしてきたやつと思われたのか、定かじゃないが

あなた何言ってるんですか。

みたいな空気をひしひし感じ、すべてをごまかすように自分は、ハルさんの目元をティッシュでぽんぽんと拭いた。


「・・・・Thanks」


といって彼女は一応ちょっと泣き止んだ。

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