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2021年の5冊

2021年も多くの素晴らしい本に出会った。2021年に読んだ本の中から5冊を選び、紹介するエントリー。

中川毅『人類と気候の10万年史』(2017)

ジャンルとしては古気候学に属する。昔の地層に含まれる植物などの堆積物から、その当時の気候を類推する学問だ。その研究は堆積物を上下が混ざらないように慎重に取り出し、一年単位の1mmくらいのスライス(年稿)に分け、それらスライスに含まれる花粉の種類と数をひたすら数える。とても地味でこつこつとした研究だ。

古気候学の分野では近年、大きなブレイクスルーがあった。それが福井県の水月湖の年稿だ。これは7万年分もある堆積物だ。人為的な介入が行われておらず、大雨などによる土砂の流入がなく、ゴカイなど湖底をかき混ぜる生物がいない、といった条件を満たす奇跡の湖である。本書はその年稿を中心として、ときには一年単位の細かなスケールでの過去の気候について語っている。

地球の気候はおよそ10万年の周期で間氷期が訪れる。それは地球の公転軌道の変化だとするのがミランコビッチ理論。水月湖の年稿のデータは、その理論を見事に実証する。

ミランコビッチ理論と水月湖の堆積物から分かる植生の変化からパターンを推定すると、実は現在はメタンや二酸化炭素は減っている時代のはず。しかしそれらは増えている。産業革命以降の人間活動のせい、と思いきや、推定パターンとのずれは5000~8000年前に遡る。それは人間の農耕の開始である。気候変動はもうその時に運命づけられていたのか。

松谷創一郎『ギャルと不思議ちゃん論』(2012)

日本の若者文化論かな。およそ1990~2010年の10代・20代の女性を巡る様々な表象について論じたもの。きわめて情報量が豊富。この時代・年代の女性たちが、いかに自分たちのアイデンティティを模索・確立していったかが論じられる。

まずはギャル、コギャルだ。それ以前の日本にあった若者女性像は「少女」だった。純粋無垢で純潔な少女、成長すれば良妻賢母となるような女性像である。「少女」はすでに性的な成熟しているにも関わらず、その身体の性的使用を禁じられるという抑圧のもとにあった。女性の社会進出に伴って、こうした少女像に対する反発が生まれる。ギャルはそうした反発の一つのパターンである。ギャルは性的自由を自らのもとに取り戻す。その象徴は援助交際だ。

一方、ギャルに対する差異化として位置づけられるのが、不思議ちゃんだ。不思議ちゃんはむしろ性的には中立を装う。女性らしさというより、どのカテゴリーにも当てはまることを拒否する。性的自由を取り戻す、というより、性的であることを拒否することによって「少女」の性的抑圧から抜け出す。

こうして、ギャルの代表としての安室奈美恵と、不思議ちゃんの代表としての篠原ともえという図式が成立する。

この二つの筋は共通するもの、互いに反発するものを含みつつ時代を形成していく。ギャルはその後、もはや異性ではなくむしろ同性に対する優位性のアピールを行う「モテ」へ移行し、その差異化としては文科系、山ガールといった形態が現れる。

毛内拡『脳を司る脳』(2021)

脳科学の入門書。普通の入門書だと、まずニューロンの作用機序の話があって、そこから大脳新皮質とか大脳基底核とかの各部位の説明、そして視覚、運動、記憶、言語、注意など各機能の解説へ移るだろう。この本がとても面白いのは、(最初こそニューロンの作用機序の話だが)基本的にニューロン<以外>の話をしていることだ。

脳においてニューロン以外というと、何があるのか。まず脳細胞の間の空間を流れる脳脊髄液。脳脊髄液は単に老廃物を脳の外へ流しているだけではない。髄膜はリンパ管ともつながっており、脳脊髄液によって脳の免疫が担われる。また、脳脊髄液によってノルアドレナリン、セロトニンなどの神経修飾物質が広範囲に拡散されることにより、接続の遠いニューロン集団間の全体的な活動の調整を行っている。

さらにニューロンではない脳細胞、グリア細胞について。なかでもアストロサイトと呼ばれる細胞については非常に面白い。アストロサイトはニューロンの軸索などを取り巻いている。アストロサイトはニューロンの活動を補助するものと考えられてきた。エネルギーの供給であったり、過剰に放出されたグルタミン酸を回収したり。

しかし、実はアストロサイト自身がカルシウムイオンを用いて情報伝達を行っている可能性が見えてきている。このグリア伝達は、もしかしてニューロンとは異なるもう一つの情報伝達回路かもしれない。ニューロンは軸索でつながる経路しか伝達しないが、グリア伝達はより広範である。アストロサイトはニューロンの活動を補助するというより、むしろその活動を制御しているといったほうがよいかもしれない。

神経科学(ニューロンの科学Neuro-science)ではなく真に脳科学と呼ぶべきものへ。

大塚淳『統計学を哲学する』(2020)

哲学、統計学方面のみならず、データサイエンスや果ては経済学まで大きな反響を呼んだ一冊。統計学の哲学というと、頻度主義とベイズ主義の対立に関して論じ、どちらが優位なのかと考察するものが多い。もちろん本書にそうした論点はあるが、そこが主眼ではない。

統計とは、与えられたデータから、そのデータを生み出した元の事象の性質を知ろうとするものだ。その発想は、例えば与えられた感覚刺激から、どのように私たちは外界の事物を知りうるか、という哲学における認識論の問題設定と同じである。したがって、認識論における様々な立場、内在主義、外在主義、徳認識論などといった立場と、それら立場における問題・課題は、それに並行するものが統計学の様々なアプローチのうちに見られる。

こうして内在主義とベイズ主義、外在主義と頻度主義、徳認識論と深層学習といった形でそれぞれの立場の整理が行われる。その並行っぷりは驚くべきものだ。

さらには、因果推論といった最近の統計学方面での話題にまで及んでいる。因果に対するヒュームの規則説と、ルイスの反事実条件説は、計量経済学に見られる回帰分析と、ルービンの潜在結果に対応する。また、「介入」を考える因果推論が、データとその元として推定される確率モデルという二元的な存在論を超え、データ/確率モデル/因果モデルという三元的な存在論という異なる基本的発想に立っているとの重要な指摘もある。

哲学における議論の構図から科学の問題を整理し、さらに新たな問題圏を拓いていく、きわめて健全な科学哲学の議論の仕方だろう。いまから振り返れば私も大学院時代、たぶんこういう研究がしたかったのだろうと思った。

嶋田総太郎『脳のなかの自己と他者』(2019)

哲学、認知心理学、神経科学を横断して自己と他者に関する現在分かっている成果を分かりやすく提示する一冊。大学での集中講義をまとめたもののため、著者独自の見解というよりは、いま現時点で分かっていることをまとめている。

身体所有感、運動主体感、情動、ミラーシステム、心の理論、共感、物語的自己といった話題が扱われる。どの章も、まずそれぞれのトピックに関する過去の有力な哲学者の理論から始まり、心理実験、そして脳神経的基盤へと話が進んでいる。

ラバーハンド実験をはじめとして、自己の身体の範囲がどう揺らぐのか。情動が内受容感覚の処理として、どのように認知過程に関わり、離人症などの症例としてどう表れるのか。

また他者については、ミラーシステムと心の理論という二つの軸で論じられる。ミラーシステムは単に他者の動きをコピーするのではなく、自分の行為可能性と関わっている。アスリートやバレエダンサーなどで自分もエキスパートであれば、そうした動きを見たときのミラーシステムの活動は素人とは異なる。ミラーシステムはむしろ自分の運動回路と関連している。心の理論はミラーシステムとは異なって、他者らしい他者を理解するものだ。ここにレヴィナスが引かれるのは意欲的。ミラーシステムによる情動的共感(sympathy)と、心の理論による認知的共感(empathy)。

さらにミラーシステムでも心の理論でもなく、他者との共同行為において運動主体感が生じるwe-mode認知など、まだ新しい話題にも積極的に触れられる。


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