坂間 毅

哲学の研究を経ていまはIT業界に身を置きながら、テクノロジーや哲学的なことについて考え…

坂間 毅

哲学の研究を経ていまはIT業界に身を置きながら、テクノロジーや哲学的なことについて考えています。

最近の記事

2023年の5冊

毎年の年初記事。2023年は読むペースが落ちた。時間を割けなくなったというより、なぜか時間当たりに読めるページが減った。昔ならすらすらと理解できたものが、引っかかるようになった。それは理解力が低下したのかもしれないし、慎重に読むようになったのかもしれない。 羽生田慶介『すべての企業人のためのビジネスと人権入門』(2022) 企業活動において人権への配慮が問題となるケースが増えてきている。古くは鉱山、カカオ産業、縫製工場における児童労働、新疆綿を取り扱うアパレル産業、Bla

    • 奇跡が起こらないという奇跡

      TL;DR 出来事の起こりやすさは、それがありふれているかどうかを考えることによって評価できる。ありふれているかどうかは、私たちの既存の理解の体系で容易に説明がつくかどうかによって判断される。 奇跡とは、ありふれていない出来事のことである。奇跡が起こること自体が奇跡的であり、奇跡が頻繁に起こらないことが奇跡的であると言える。現在の社会は奇跡が起こりにくいため、それ自体が奇跡的なのである。 出来事の定式化 この世には様々な出来事が起こる。ありふれた出来事から、不思議な出

      • K-Popと政治運動

        なるほどと思った、MIT Techonology Reviewの記事のメモ。K-popのファン層(fandoms)が世界中で政治運動を組織し、行動する話。 BTSについて言えば、もともと大手音楽事務所の所属でなかったため、BTSはSNSを中心とした普及戦略を取った。大手でないがゆえ、メッセージ性のある発信にも敷居が低い。BTSは寛容、平等、多様性について歌やメッセージを発信し、韓国における社会経済的な不平等を批判している。 こうした動きはファン層にも反映された。 ・202

        • 2022年の5冊

          毎年書いている、その年に読んだ本から5冊を選んで紹介する記事。様々な分野を読んで視野を広げようとしているが、壁が迫るように狭くなっていくのを感じる。今年は仕事関連の本がだいぶ増え、純粋に趣味と言える本が減った気がする。 坂井豊貴『「決め方」の経済学』(2016) いつもながら書き方のうまい著者による、社会的選択理論を紹介する一冊。社会的選択理論というと厳めしいが、多数決に代表されるような、集団の意見を集約する方法について書かれている。具体例がきわめて豊富で説得的で、思わず

        2023年の5冊

          中華料理店の回転テーブルの起源

          回転テーブルは、中華料理店でお馴染みだ。個室とかにはよく設置してあって、大皿の料理が載る。人々は、好きな料理が自分の近くに来るようにテーブルを回し、取り分け用の大きな箸を使って自分の皿に取る。いかにも中華料理店っぽい風景だが、意外にもこの回転テーブルは中華料理の伝統にはない。 その起源はどこにあるのだろうか?二つの説が見られるが、どちらも20世紀になって中国生まれではない人によって発明されたという点は共通している。一つ目の説は日本、もう一つの説はマレーシアだ。そして、後者の

          中華料理店の回転テーブルの起源

          偶然性に耐えて思考する

          以前、喜捨論を書いたときに、贈与のように見えながら贈与でないものを取り上げて、贈与とは何かを明確化しようとした(「交換、贈与、そして喜捨へ (2/4)」)。これは、単に贈与でないものが贈与であると勘違いされているという話に尽きない。 何かを批判する議論は、単に「それは違う」と指摘するだけでは不十分だ。批判する議論は、批判すべき考えが生まれてくる過程に、取り上げるべき特有のポイント・眼目があると指摘してこそ生産的な議論を提供する。つまり、そのような間違いが生まれることには、単

          偶然性に耐えて思考する

          交換、贈与、そして喜捨へ (4/4)

          第3回へ 喜捨の現代的読み替え さて本論の目的は、喜捨の概念を現代化することにあった。喜捨は、神から与えられたものを神に返すことであり、喜捨されたものはその場に居合わせたものに対しても使えるのだった。 まず神という概念は、いまの私たちにとってはもはや遠いものだ。私は神という概念を、社会の外部に置き換えたい。社会の外部とは人間活動の外部であり、自然環境と考えることができるだろう。 すると喜捨は、私たちに馴染み深いものに変わらないだろうか。すなわち、私の財産は究極的には社

          交換、贈与、そして喜捨へ (4/4)

          交換、贈与、そして喜捨へ (3/4)

          第2回へ さて贈与と交換を巡る長々として話を経て、ようやく(!)問題を提起するところまで来た。ここからが話の始まりであり、もう終わりでもある。 交換が抱える二つの問題 贈与は一方的で暴力的なものであり、適用範囲の狭い社会関係資本を必要とする。交換は相手を指定しないから任意で非暴力的なものであり、適用範囲の広い金融資本を必要とする。こうして交換を、特に商品貨幣経済を褒め称えて終わりだろうか。だがモースは『贈与論』の後半で、私たちの社会は商品貨幣経済だけであってはならず、贈

          交換、贈与、そして喜捨へ (3/4)

          交換、贈与、そして喜捨へ (2/4)

          第1回へ 贈与が成立するための3要件 モースの議論を参照して、贈与には三つの義務があることを見てきた。贈与する義務、贈与を受け取る義務、返礼の義務だ。先に進む前に、贈与を成り立たせる要素、贈与が贈与であるための要件を探っておこう。それにより贈与のように語られながら、実際は贈与ではないと思われるものを見分けておこう。実は今回の全体の話の目的は、贈与とみなされてしまっているものに別の名前を与えて、贈与ではない枠組みで考えることを可能にすることだ。 贈与では贈り手が贈与の意思

          交換、贈与、そして喜捨へ (2/4)

          交換、贈与、そして喜捨へ (1/4)

          年末年始は贈り物の多い季節だ。習慣としては徐々に薄れつつあるけども、お歳暮であったり、お年玉であったりと物を贈る機会が見られる。こうした物を贈ること、贈与(gift)はなぜ行われるのだろうか。贈り物をすることで、人は何をしようとしているのだろうか。 ここからやや長きにわたって、贈与とは何か、贈与とよく対比される交換とは何かを考えていく。そして交換でも贈与でもない、喜捨という概念の可能性を拓いていきたい。 贈与とその相手 まず、贈り物は誰に対しても行われるのではない。贈り

          交換、贈与、そして喜捨へ (1/4)

          2021年の5冊

          2021年も多くの素晴らしい本に出会った。2021年に読んだ本の中から5冊を選び、紹介するエントリー。 中川毅『人類と気候の10万年史』(2017) ジャンルとしては古気候学に属する。昔の地層に含まれる植物などの堆積物から、その当時の気候を類推する学問だ。その研究は堆積物を上下が混ざらないように慎重に取り出し、一年単位の1mmくらいのスライス(年稿)に分け、それらスライスに含まれる花粉の種類と数をひたすら数える。とても地味でこつこつとした研究だ。 古気候学の分野では近年

          2021年の5冊

          道行く人はなぜぶつかってこないのか -- 信頼と信任について (4/4)

          第一回へ 今回は、もう一つの可能性を示して終わることにする。 「スカンディナヴィアのパラドクス」と呼ばれるものがある。人々の間で自然と行われている助け合い(社会的扶助)が公的に制度化されるとしよう。すると、この助け合いはもはや行政機関など公的機関の仕事になり、他人を気遣い助け合う必要はなくなるように思われる。したがって、人々の間の信頼や、連帯感は低下するだろう。ところが、世界的に見て最高水準の福祉制度が維持されているスカンディナヴィア諸国では、他国に比較して高いレベルでの

          道行く人はなぜぶつかってこないのか -- 信頼と信任について (4/4)

          道行く人はなぜぶつかってこないのか -- 信頼と信任について (3/4)

          第一回へ ここからは、話を別の方向に進めよう。未来の話だ。それは秩序維持のシステムの強化についてである。 ここまでの話を振り返る。道行く人がぶつかってこないだろうという私の信頼の根拠は、二つの要素に求められた。一つは一般常識、道徳、法律といった秩序維持のシステムに対する私の信任。もう一つは、同じシステムを道行く人も信任しているであろうという私の信頼だった。そして、なぜシステムに対する信任だけではなく、他人の信任に対する信頼も必要なのかという理由に、システムの秩序維持の機能

          道行く人はなぜぶつかってこないのか -- 信頼と信任について (3/4)

          道行く人はなぜぶつかってこないのか -- 信頼と信任について (2/4)

          第一回へ 道行く人はなぜぶつかってこないのか。すぐに浮かぶ回答は、道行く人にぶつからないのは一般常識だから、というものだ。あるいは、道行く人にぶつかっていく人は道徳的におかしい。こうした一般常識や道徳を反映させる形で法律は作られている。こうした一般常識、道徳、法律を守らない人は、社会的に非難されたり、警察という秩序維持の装置により対処される。 ここに出てきたのは、一般常識、道徳、法律といった秩序維持のシステムに対する態度である。こういったシステムは、自由に行為する存在者で

          道行く人はなぜぶつかってこないのか -- 信頼と信任について (2/4)

          道行く人はなぜぶつかってこないのか -- 信頼と信任について (1/4)

          お盆の季節にしては風雨の激しい、不思議な天気の一日だ。木々が大きく揺れている。あの木の枝が折れて、私にぶつかってきたりしないだろうか。おそらくたいていの場合、このくらいの風ではそんなことはないだろう。特に剛体に関する計算をしたわけではなくとも、過去の経験から誰しも分かりそうなことだ。 では、道を歩いていて、向こうから来る人が私にぶつかってきたりしないだろうか。これも、おそらくたいていの場合、そんなことはないだろう、と誰しも分かりそうなことだ。しかし、街路樹の枝と道行く人につ

          道行く人はなぜぶつかってこないのか -- 信頼と信任について (1/4)

          学問の成果と通説

          学問的成果に基づいて、ビジネスや日常の場で示唆として使われる例はよく見られる。ただこうした中には、よく考えてみると誤解だったり、後の研究で否定されているものがある。 しかし示唆がキャッチーだったりすると、そのまま浸透する。そして実は違うことが共有されず、通説として生き残っている。そうした例をいくつか挙げてみる。 アイヒマンと悪の陳腐さ概要:アドルフ・アイヒマン(1906-1962)はナチス・ドイツにおけるゲシュタポのユダヤ人移送局長官。ユダヤ人虐殺の場となった強制収容所へ

          学問の成果と通説