2023年の5冊
毎年の年初記事。2023年は読むペースが落ちた。時間を割けなくなったというより、なぜか時間当たりに読めるページが減った。昔ならすらすらと理解できたものが、引っかかるようになった。それは理解力が低下したのかもしれないし、慎重に読むようになったのかもしれない。
羽生田慶介『すべての企業人のためのビジネスと人権入門』(2022)
企業活動において人権への配慮が問題となるケースが増えてきている。古くは鉱山、カカオ産業、縫製工場における児童労働、新疆綿を取り扱うアパレル産業、Black Lives MatterやMeToo運動に対するスタンスなど。人権問題への対処がビジネスに求められてきている。
本書はビジネスにおいて人権問題に焦点が当たるようになった経緯を始め、まず取られるべき方策、そして人権問題をビジネス化する流れについて書く。タイトル通り、特に人権問題に関連する仕事をしていなくても、企業人であれば誰もが読んでおくべき本だ。
日本にも少数民族、部落、障碍者といった差別が多くあるのに、なぜか日本では人権の話はどこか遠い話である。人権と環境への配慮を謳うSDGsへの対応は日本企業の大好きなところだが、その対応の中身はほとんど環境問題でしかない。
しかも人権問題は法律の問題、コンプライアンスの問題と捉えられがち。いまや企業の人権問題への対応はコンプライアンスをはるかに超え、その企業の有り様に及んでいる。投資家、一般消費者など、従来とは異なる人々がステークホルダーとして登場するのは、環境問題と同じである。
ビジネスにおいて人権問題がトピックに挙がったのは、2011年の国連で採択された「ビジネスと人権に関する指導原則」がきっかけ。本書ではこの指導原則に何が書いてあって、それに沿ってどういう対処がされようとしているかをメインに扱う。
また、人権問題をビジネス化するという捉え方が面白い。ここは環境問題と人権問題が並行している。環境問題もかつてはビジネスにすべきではないという風潮があったが、1997年の京都議定書採択以降、105兆円とも言われる環境ビジネス市場が立ち上がっている。環境問題もかつては市民団体や行政から企業が対応を迫られる、受動的なコンプライアンス問題だったのだが、いまや「稼げる」話題に変わった。人権もそうなるだろうし、それが資本主義社会における問題解決の一手段だろう。
ハリー・コリンズ『我々みんなが科学の専門家なのか?』(2014/2017)
科学者の権威というものは近年、かなり低下した。新型コロナウィルスを巡るロックダウンやらmRNAワクチンやらの議論を見れば分かるように、いまや誰もが専門家気取りである。旧Twitterを見れば、科学者に対して素人が食って掛かる情景が見られる。
では、いまや誰もが科学の専門家なのだろうか。科学者は一般の人と何が違うのだろうか。科学者が持っているとされてきた、科学の専門知expert knowledgeとは何なのだろうか、そしてそれは無くなったのだろうか。
本書は科学とは何か、を考える科学論のこれまでの論争史をたどり、科学の専門知をいくつもに分類する。その分類はなかなか細かく、用語も含めて論証にはキャッチーな印象はないので、やや読みにくくある。ただメタ的に言えば、それがまさに専門知の姿なのだ。この本は、専門知についての専門知を含んでいる。
一般の人でも科学論文を読みこめば、ある程度の専門知が付くだろう。ただし著者によれば、それで科学の専門知がすべて身に付くわけではない。身に付かないのは、暗黙知である。すなわち例えばある科学論文が、科学者コミュニティのなかでどう受け止められているか。こうした暗黙知を得るには、大学院に通って博士号を取るといった、一定の通過儀礼によって、科学者コミュニティからメンバーであると認められる必要がある。
これだけだと、科学者を擁護してその権威を取り戻そうとする試みに見られがちだ。実際はそうではなくて、そのためには著者の別の本を参照する必要がある。
マーク・クーケルバーク『AIの政治哲学』(2022/2023)
AIがもたらす社会問題を扱いながら、同時に政治哲学への入門書にもなるという優れた一冊。AIと政治というと遠いようにも見える。だが昨今、AIが提起している問題はすぐれて政治的である。すなわち自由、平等と正義、民主主義、権力、などなど。
アルゴリズムによる自動的決定は、人間の選択の自由を奪うと言われる。アルゴリズムがもたらすバイアスは、平等な取り扱いを妨げると言われる。レコメンデーションがもたらすフィルターバブルは、民主主義の基盤を切り崩すと言われる。街中に溢れる監視カメラ、金融取引の監視は、市民を管理する国家の権力を増大させると言われる。では、そもそも、自由、平等、民主主義、権力とは何なのだろうか。
本書では政治哲学の典型的な議論を辿り、上記のような議論で何がそもそも問題になっているのかを扱う。例えば、自由で言えば有名なバーリンの二つの自由概念、平等で言えば機会の平等と結果の平等や、アリストテレスの配分的正義と矯正的正義の区別、民主主義ではアレントの活動(action)やハバーマスの公共圏、熟議的民主主義といった概念的区別。
マルクス主義理論がそれなりに登場するのが、アメリカではなくヨーロッパの著者らしいところか。後半には非人間に対する政治哲学や、AIを政治的エージェントとして認めうるか、などの発展的な議論が見られる。
哲学的知識の非常にまっとうな使い方だろう。
神取道宏『ミクロ経済学の力』(2014)
経済に興味のある人なら誰でも読んでいる、ミクロ経済学の教科書。母国語でこんなレベルの教科書が読める日本の経済学は、この上なく恵まれた状況だろう。初級レベルの問題の選び方、分かりやすさ、丁寧さ。まさに第一級の教科書。
500ページくらいある大部の本だが、読みやすく引き込まれることもあって長さは感じない。説明のうまさに、何となく分かった気になって進んでしまうおそれもある。そんな人のために、本書の姉妹編として問題集も用意されている。周到。
経済学者を育てるために書かれた本ではなく、むしろアナリストや、ビジネスにおける経済学的センスを身に着けるために書かれた、一般教養課程のための本。企業人なら読んでおいて損はない。
林佳世子『オスマン帝国500年の平和』(2008/2016)
オスマン帝国の通史。14世紀のオスマン侯国に始まり、第一次世界大戦後の1922年にオスマン帝国が解体されるまで。オスマン帝国は、解体後にバルカン半島や中東で興った国民国家からは、過去の遺物とみなされた。国民国家イデオロギーを強化する必要性、国民国家を正当化し、国民として統合する必要性からだ。歴史研究もその影響を受けており、本書は慎重にそうした見解を吟味している。
オスマン帝国はなによりも、バルカン、アナトリア、アラブ地域の伝統を受け継ぎ、制度を柔軟に混合して効果的な統治を実現した中央集権国家だった。ポイントは中央主権である。様々な民族、宗教、文化が入り混じるこの地域において、オスマン帝国のこうした統治の仕方は一つの有効な手段だった。この統治を外して各地は国民国家を目指したのだが、それがこの地域でクルド問題、パレスチナ問題など様々な軋轢を生んでいる。
その点からいえば、国民国家ではない統治の一つの類型がオスマン帝国には見られる。国民国家が要請する「一つの国民」がもたらす、国内・国外に対して国民と非・国民を区別する差別構造などから逃れるヒントがオスマン帝国にある。
オスマン帝国の歴史ではメフメト2世(1451年即位)、バヤズィト2世、セリム1世、スレイマン1世(1566年死去)の4人のスルタンの時代が人気だ。これらスルタンは人間的にも魅力があり、時代としてもオスマン帝国が領土・体制の面で出来上がっていく。しかし個人的に面白いのは、これらヒーローめいたスルタンの後の時代、対外膨張から国内強化へ転換した時代だ。
その時代にイスラム法を中心とする内政の整備が進み、強固な権力構造、官僚機構が出来上がる。これ以降のスルタンは目立たない存在となる。優秀な官僚統治機構ができたため、日本の総理大臣が頻繁に変わっても混乱が生じないがごとく、スルタンの強力なリーダーシップを必要としなくなったのだ。
例えば、8歳から15歳前後の少年を主に農村から徴用し、予備軍兵や官僚としてイスタンブールで育成する、デヴシルメという制度は興味深い。これは家柄などに拘らず、広く人材を徴用し、出自から切り離して宮廷にのみつながりを持つ存在として育てる仕組みだ。中国王朝では科挙によって優秀な官僚機構が維持されたのに似ている。
オスマン帝国を傾かせていったのは、1683年の第二次ウィーン包囲からカルロヴィッツ条約締結まで続く16年間のハプスブルク家との長い戦争である。この時期に、重い戦費負担もあって徴税や経済の仕組みが変わり、それが崩壊へつながる。現在の研究では、オスマン帝国のシステムは18世紀末に終わりを迎えたと捉えられる。オスマン帝国はその後も100年以上続くが、それはこの地を統治する他のリーダーがいなかったことなどによる。この残余の時代のオスマン帝国は、近代オスマン帝国と呼ばれる。
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