奇跡が起こらないという奇跡
TL;DR
出来事の起こりやすさは、それがありふれているかどうかを考えることによって評価できる。ありふれているかどうかは、私たちの既存の理解の体系で容易に説明がつくかどうかによって判断される。
奇跡とは、ありふれていない出来事のことである。奇跡が起こること自体が奇跡的であり、奇跡が頻繁に起こらないことが奇跡的であると言える。現在の社会は奇跡が起こりにくいため、それ自体が奇跡的なのである。
出来事の定式化
この世には様々な出来事が起こる。ありふれた出来事から、不思議な出来事、インパクトのある出来事など。そうした、世の中の出来事を列挙することができたとしよう。すなわち出来事集合$${E}$$があって、$${E = \{E_0, …, E_N\} (N \in \mathbb{N})}$$とする。
それぞれの出来事には起こりやすさがある。本当にその出来事が起こりやすいのかどうかは、実際のところよく分からないので、代わりにありふれているかどうかを考えよう。起こりやすさという存在論的概念というよりは、ありふれているかどうかという認識論的概念を考える。
ありふれている、というのは単純に数が多いということではない。ここで考えたいのは、そうした出来事が起こったときに、私たちが驚くかどうかということだ。つまり、私たちの既存の理解の体系(日常物理学とか日常心理学とか)で容易に説明がつく出来事なのかどうか。稀に起こる出来事だとしても、容易に説明可能なのであれば、ありふれていると考える(別の言葉を何か選ぶべきかもしれないが。定常性とか)
こうした「ありふれていること」にも程度差があるだろう。この程度が$${[0,1]}$$の実数閉区間で表されたとすると、出来事の「ありふれている程度」を表す関数$${F: \mathit{P}(E) \to [0,1]}$$を考えることができよう。($${\mathit{P}(E)}$$は$${E}$$のべき集合。具体的にはベイジアンサプライズでも与えればよかろう)
ありふれていない出来事としての奇跡
さて本稿が考えたいのは奇跡(miracle)についてだ。奇跡として語られてきたものは、例えば新約聖書の福音書にあるイエスの奇跡が典型的だ。重い皮膚病を患っている人にイエスが触れると、病気が治ったとか(『マルコによる福音書 1:40』)。
何らかの出来事が奇跡と呼ばれるのだが、どんなものが奇跡と呼ばれるのだろうか。それは、ありふれていない出来事だろう。触っただけで皮膚病が治るとは、普段私たちは考えていないからこそ、その出来事が奇跡として描かれる。
そこで、ありふれているかどうかの程度のうち、奇跡と呼ばれうる水準$${ \epsilon > 0}$$を考える。すると出来事のうちから、奇跡集合$${E_M=\{E_i \in E | F(\{E_i\}) < \epsilon\}}$$を特定することができる。奇跡集合に含まれる出来事はどれも十分にありふれていないものであって、それが起これば人々を驚かせることになる。
奇跡が起こるという奇跡
さて、こうした奇跡がどれだけ起こるかを考えたい。奇跡が複数起こるなんてことは、一つ起こるよりもさらにありえないことのように思われる。また、いくつもの奇跡を考えてそのどれか一つでも起こることは、単独で起こるよりはありえるように思われる。
この出来事の「ありふれていること」の程度について、複数の出来事の計算ができるかは正直、なかなか議論しづらいところだ。しかしいま、確率と同じように計算できると考えよう。すなわち、複数の出来事のどれかが起こることは、それぞれの出来事のありふれていることの和で表現されるとしよう($${F(\{E_i, E_j\}) = F(\{E_i\}) + F(\{E_j\})}$$)
すると、何であれ一つでも奇跡が起こることがありふれているかどうかの程度は、$${F(E_M) = \Sigma_{E_i \in E_M} F(\{E_i\})}$$と表現されていることになる。もし$${F(E_M) \geq \epsilon}$$であるなら、奇跡集合に含まれる奇跡のどれかが起こることはありふれたことである。すなわち、奇跡なんてたくさんあるのだから、そのうち一つくらいは起こるだろう、ということを意味する。
日常という奇跡
私たちの現在の社会は、すぐれて奇跡が起こりにくい時代にあると言える。近代科学はその説明可能性を増しており、たいがいの出来事は何らかの科学によって説明がつく。あるいは少なくとも、実際は(現在の科学のレベルによって)科学的に説明できるかどうかは分からないが、原理的には説明できるものであると考えられている。一般的に、奇跡的な出来事が起こりうるのだと、私たちはあまり見なしていない。
よって現在では、奇跡が起こるということはあまりありふれていることではない。これは、$${F(E_M) < \epsilon}$$ということだ。しかしここに本稿が主張したいポイントがある。すなわち、奇跡集合の「ありふれていること」の程度$${F(E_M)}$$は、奇跡である水準$${\epsilon}$$を下回っているのだから、奇跡集合はそれ自体が奇跡的なのである。
これは平易に言えば、奇跡が起こらないということは奇跡的なことだ、ということである。もともとありふれていない奇跡でさえ、そのどれもがおこらないというのは、それ自体が奇跡的である。
それはそうで、奇跡が頻繁に起こってしまえば、私たちにとってそれはありふれた出来事になるだろう。奇跡はありふれて起こらないからこそ、奇跡たりうる。ということは、奇跡がどんどんとありふれたものではなくなっている現在の社会は、まさに奇跡的なのである。
どうでもいい細かい注。 奇跡集合について$${F(E_M)}$$が計算可能となるために、もともとの出来事集合$${E}$$は有限であると冒頭で仮定しておいた。出来事の全体が有限であるとか、それよりそもそも出来事はどうやって個別化される(一つの出来事をどう特定するのか)は、はるかに大問題である。
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