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宝石箱を見たことはないけれど

三連休明けの火曜日から大学の秋学期が始まる。昨日まで海外旅行に出かけていた僕はそれをすっかり忘れていた。
ちょうど旅行中に成績発表があり、先学期の科目に全て合格していたことから、今学期はたった1コマ取ればそれで卒業に十分であった。風船を運ぶような気楽さだ。

東大の授業はやたらと種類が多く、その割にシラバスの検索機能は充実していない。これまでにも必要な科目区分のものを探し出すために幾度となく苦労してきた。おまけに検索画面はどんよりとした曇り空の配色だ。これらが憂鬱を引き立てる。
授業を選ぶこと、それは自らの手錠を選ぶに等しい行為だった。
成績評価の欄には、課される刑の重さが書いてある。その程度によって、僕の日常における苦痛が定まるのだ。

ところがどうだろう。
僕はいま、卒業念慮から放たれた。
そして、必要科目を取るべしという過去の外圧は、新たな知への意欲という応力を招く。

ここにシラバスがある。
好きな作家を原語で読解したいと思い、フランス語の授業を調べれば、ちょうど同世代の作家の輪読が開かれている。木曜日が暇だと思って曜限順に並べれば、統辞論なる見知らぬ世界が見つかる。さらに見ていけば歌うことや演じることも専門的に指導してもらえることがわかる。
無数の輝きに包まれている。満たされすぎて下品ささえ覚える。
僕はこんなものを持っていたのか。
贅沢にも10の宝石を選び取り、僕はそれらを指にはめた。

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