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いつだってそばにいる:ミヒャエル・エンデ『モモ』

私は読書は体験だと思っているし、子供時代ならなおさらだ。

子供の頃に夢中で読んだ本はいくつもあるのに、思い出せるのは当時の自分の熱狂ぶりばかりで、ではどんな話だったかとなると途端にぼんやりとしてくる。下手をするとタイトルだって怪しくなってくる。

先日も、小学校の時に大好きで何度も図書館から借りていた本の名前を思い出したくて、覚えている表紙のイメージと断片的なタイトルと内容だけで必死で調べた。記憶にあるのは、緑色の表紙で、「○○おばさん」というタイトルで、翻訳物で、子供の問題を解決する話、そして最高に痛快な話だったということ。

結果『ピグルウィグルおばさん』という本で、近所の図書館にあるということがわかりうれしくなった。別の本を借りに行ったついでに児童書のコーナーに寄って開いてみると、自分が記憶していたよりもずっと大きな字で平仮名も多く、大人の本に慣れてしまった自分には逆に読みづらい。こんなところで時の流れを感じるなんて。結局借りることはしなかったが、ここにくれば読める、それを知っているだけでも心の支えが増えた気がした。

表題の本とは関係ないが、もう少し続ける。

私はとにかくこの『ピグルウィグルおばさん』が好きで、何度も何度も、たぶん定期的に読んでいたような気がする。村だか町だか覚えていないが、クセが強く親の手に負えなくなった子供を預かって、その問題(お風呂が嫌い、とか)をユニークな方法で解決してくれるおばさんの話、だったと思う。無駄に正義感が強く、真面目でズルとかが出来ない性格だった私にとって、学校の教室はあまり居心地のいい場所ではなく、かといって家も家でストレスがある。そんな時、子供のこときちんとを受け止め、ユーモアも忘れず、それでいてどんな悩みもスッキリ解決してくれるピグルウィグルおばさんは、きっと私にとってのスーパースターだったのだろう。私の中の「ピグルウィグル成分」が足りなくなると、いつも学校の図書室に急いで借りに行った。

見栄や世間体にばかり気をとられた大人に翻弄される日々の中で、物語は私にとって「絶対に信用できるもの」だった。表紙を開けばいつだってそこにいるし、結末は何度読んだっておんなじだ。ページが破りとられない限り、物語は途切れない。こんな最高なものはない、そのくらいにのめり込んでいた。

今回読んだ『モモ』の主人公モモには、親がいない。そしてどこから来たのかもわからない。だけどいつだってそこにいて、不思議な魅力を持っている。「モモがいてくれたら大丈夫」そう思わせてくれる存在だ。私は今回、大人になってから初めて読んだけれど、子供の頃に読んでいたらたまらなかっただろうなと思う。この物語には子供はたくさん出てくるけれど、どの子も親の話をしなくて、親を連れていない世界。ここは、金持ちとか貧乏とか親が美人とかそういった「○○の子」ではなく、子供が一人の人間として存在している世界、存在していい世界、そんな風に思えた。

子供は孤独な存在だ。小さな身体と未熟な心と豊かな感受性で、世界と渡り歩かなければいけない。子供社会は大人以上に残酷な部分があって、自分自身、よくやってこられたなと思うことも多々あるけれど、それはたぶん物語があったからだ。子供の頃に『モモ』を読んで虜になって、大人になってからも宝物のように感じている人はたくさん、本当にたくさんいると思う。世界的ベストセラーというのも大いに納得するしかない一冊だと、心の中でうんうん頷きながら読み、あの頃の気持ちを思いだして少しだけ切ない気持ちになった。

で、次に読む本だけれど、児童書つながりでロアルド・ダールの『へそまがり昔ばなし』を読んでみようと思う。結構前にEテレでやっていたアニメが大好きだったので、ずっと気になっていた。ロアルド・ダールも大人気の作家。楽しみだ。


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