眞木

【現在54歳の私の終活】 人生100年時代 とはいえその半ばも過ぎたので、これまでの自…

眞木

【現在54歳の私の終活】 人生100年時代 とはいえその半ばも過ぎたので、これまでの自身の道のりをふり返りつつ、いつか迎えるであろう「終わり」について思うことを文字にしてみようと思います。

最近の記事

義理の父のこと その2

そんな優しい、家族思いのお父さんでしたが、私が大学に行きたいと思っていることには反対でした 「女が大学なんかに行くと、結婚ができなくなる!」 と本気で思っている、その世代の人だったのです 子連れで再婚した母は、私の気持ちもわかる反面、お父さんのいうことも受け入れざるを得ない・・・その板ばさみでした 今思えば、私はもっとわがままでもよかったのに、自分の意志を通してもよかったかもしれないのに、母の気持ちはよく理解でき過ぎてしまい、結局、大学受験をあきらめ、専門学校へ方向転換を

    • 【義理の父のこと】

      15歳をめどに、最寄り駅が、阪急沿線・塚口から、JR山陽本線・大久保になりました 駅に行けばすぐ来ていた電車が、時刻表を見てから、電車の来る時間に合わせて出かけないと、駅で30分待たないといけない・・・これが一番の衝撃でした 通学路の両端には田畑が広がり、学校の裏には貯水池もありました 学校までの距離が、ぎりぎり徒歩圏内だったため、通学に約30分かかりました 辛いことがあったりすると、その距離を一人で帰るのが寂しかったのをうっすらと覚えています そして、父となった人は、先

      • 【明石への引っ越し】

        気がつけば9月 今年はまさに「冷夏」でした うちは犬が2頭いるので、涼しいことはありがたいけれど、野菜や果物などの出来は大丈夫なのかな?なんてことに思いを馳せることのできる年齢に、いつの間にかなっていました さて、少し話が戻るのですが、高校受験を目の前に、母の再婚話が持ち上がりました そのお相手の方が、2人目の父です 私が高校に上がると同時に、再婚をすることになったようで、受験も同級生とは違う、進学するであろう高校まで行って受験をしました 引っ越す前は、最寄り駅が阪急沿線の

        • 【2021年6月23日】

          なんと 気がつけば2か月も間が空いています いやはやいやはや・・・・・・ この間にあったのは ・動画クリエーター講座の卒業課題作成と、卒業 ・初めての案件受注 どっと老けた気がする、しんどい4月を過ごし、ほっとしたのもつかの間、もっと大変な講座に、深く考えることなく応募したら、まさかの審査通過で入れたのは良かったけど、動画クリエータースクールよりしんどいという現実がありました。。。 でも、でもね、こっちの方が、面白かったりする たぶん合っているんだろうな

        義理の父のこと その2

          【動画クリエイター講座を卒業しました】

          ちょっと話はそれますが、2021年4月は動画クリエイター講座の卒業課題にせっせとチャレンジしていました この「動画クリエイター講座」に関しては、おいおい書いていく予定です その課題のアイデアは出ないし、技術は追いついてないし、時間ばっかり過ぎていき、なんとかかんとか提出し、無事卒業にこぎつけたという感じでした そんな時って、まあこれでもかっ!!!ってくらいの言い訳が出てきましたね ・本業の仕事が忙しい→課題作成するということにして、毎日定時に終わらせている ・体調が

          【動画クリエイター講座を卒業しました】

          【育ての父】

          二人目のお父さんは、私が高校に上がる少し前に母と再婚した方でした。 名前は「秀夫」 前妻の方を早くに亡くされ、独身でした。 すでに成人した息子が3人いました。 私から見ると兄が3人できた感じですが、歳が離れていたせいで、まったくピンとこなかったのを覚えています。長男、次男、三男ともに、大きくて見た目がいかつくて怖い感じでしたが、まったく反対で、どの兄も本当にとても優しかった。 もう、遠く離れてしまい誰とも会うこともなくなってしまったけど、今振り返っても、父譲りの男ら

          【育ての父】

          【3人のお父さん】

          私には「父」が3人います 血縁がある父、私たち母子を養ってくれた父、晩年の母にひとめぼれして、私の養子縁組ごと引き受けた父 血縁のある父は、大正最後の年に生まれ、名は「利清」と言いました。 母と知り合った頃は、宝石商などを営んでいたと聞きました。正妻と2人の男の子と一緒に京都に住んでいたと聞いています。 BeerBarと言うのでしょうか、そこで女給をしていた母目当てで通っていたと、母の友人から聞いたことがあります。 こんな風に書くと、いい加減で軽い遊び半分の人にも見

          【3人のお父さん】

          【姉と妹】

          母には2人と姉と3人の妹がいました。 つまり6人姉妹の3番ということです。 上から、 允子(マサコ) 久子(ヒサコ) 恭子(キョウコ) 洋子(ヨウコ) 友子(トモコ) 七海(ナナミ) 今はもう2人だけになってしまった母の姉妹ですが、それぞれが個性的なうえ、母を始め、その時代の女性とはかけ離れた破天荒ぶりな性格揃いでした。いま思い返せば、それが血筋だったのかもしれません。 このおばたちのそれぞれの話は、また書いていくのですが、私生児として産まれた私に対し、特

          【姉と妹】

          【母の見た景色】

          私を生んでくれた母ですが、実は父には別に家庭がありました。 まあ、その頃でいう、私生児で生まれたと言ことですね。 その時代では「認められない重大な過ち」と、周りからは相当白い目で見られるようなことだったはず・・・ 振り返って考えてみれば、母の意思の強かったことを感じさせます。そして、若くもあり、また父への気持ちも通り一遍ではなかったのだと。 小柄でかわいらしく、明るい性格の母は私と違って結構男性に人気があったのです。その人気は生涯を通して変わりませんでした。

          【母の見た景色】

          【196610081832】

          勘のいい人はこの数字、すぐに読んでしまいますよね ここから自分の人生がスタートしました。 1966年10月8日土曜日18時32分、私は大阪市此花区で産まれました。 出生時の体重は2400gとやや小さめでしたが、母子ともに問題なく健康でした。 ちなみに、この日時を検索しても特に大きな事件や事故もなく、お天気は曇り、気温26度、というある意味、きわめて平凡な人生の船出だったように感じます。

          【196610081832】