「ヤンという機能」が「銀河英雄伝説」をこれほど長く愛される傑作にしている。
記事が読んでもらえているのをきっかけに、久しぶりに「銀英伝」のことを思い出した。
前から自分が「ヤンをどう見ているか」を書きたいと思っていたので、いい機会なので書こうと思う。
*原作10巻まで及び他の田中芳樹の作品のネタバレが含まれます。
◆ヤンは「当事者としての選択とそれに伴う責任」を免除する機能。
自分はヤンをキャラではなく「機能」として捉えている。
「銀河英雄伝説」の面白さと凄さは「ヤンという機能」を抜きにしては語れない。
「ヤンという機能」とは何か。
読者に、作内視点(当事者/プレイヤー)と作外視点(評論家/観客席)を自由に行き来させる回路だ。
作内の言動を見ると、ヤンはそういう視点を使い分けている。正確には物語(含周りのキャラ)によって、ヤンがそういう「使い分け機能」として働かされている。
「ヤンはチート能力によって承認を満たすなろう系の主人公のようだ」という言葉を目にしたが、自分は違うと思う。
「チート能力」「何もしなくとも女性にモテる」以上のものを、ヤンは提供している。
それは「選択や状況によって引き受けなければならない責任、そこから生まれる痛みの免除」だ。
「自分が引き起こした事態(もしくは自分が個人的に抱えている事情)」に対して責任を取らされる。
太文字で書かれたものから、ヤンはほぼ逃れている。だから作内登場人物にも関わらず、作外視点と融合することができるのだ。
◆ラインハルトは「当事者性」のみで出来ているキャラ
これはラインハルトと比較するとわかりやすい。
ヴェスターラントへの核攻撃を許可したこと、そのことをきっかけにキルヒアイスを死なせてしまったこと、ロイエンタールと対立し殺してしまったこと、ヒルダ(女性)との関係などラインハルトが責め(責任)を負うシーンは非常に多い。
ラインハルトはすべてにおいて他人からも(そして自分でも)責任があると言われ続け、読者もそれを認める構図になっている。
ラインハルトはほぼ「当事者性」のみで出来ているキャラである。
「自分が引き起こした事態に対して責任を問われ続け、そのことによって成長するキャラ」だ。
ヤンは(ラインハルトと同じように)子供っぽさを持つ人物であるにも関わらず、作内でまったく成長しない。
何故成長しないのかと言えば(年齢の問題ではなく)作内でヤン個人が当事者として引き受けなければならない責任(批判や葛藤)から免除されているからだ。
◆ヤンへの批判や責任は機能していないので、痛みが生じない。
「ヤンは軍人でありながら戦争に反対している」という葛藤、ラップやジェシカが死ぬなどの痛み、「あなたもしょせん人殺しだ」と言われるなどの批判を受けている、という向きもあるかもしれないが、これは作外視点では機能していない。
例えば「ジェシカの死」は、ヤンに作外視点では痛みを与えていない。
「作外視点では痛みを与えていない」とはどういう意味かは、他の田中作品で描かれていることと比較するとわかりやすい。
「タイタニア」で、主人公のファン・ヒューリックが自分を助けてくれた少女リラが殺されたと聞いた時、「俺が思ったのは、何であの時恰好をつけてリラを抱かなかったんだろうということだ」と言うシーンがある。
続けて彼はこう思う。「リラと寝ていれば『俺の女だ。俺が守る』と思ったはずだ」。
関係を持てば責任が生じたはずだ。だから「責任という行動の原動力を自分の身の内に生じさせるために、関係を先行させておけばよかった(行動しておけばよかった)」と言っているのだ。
「銀英伝」でもラインハルトが帝国を滅ぼしたモチベーションが「アンネローゼを奪われたこと」であることからも、この構図が田中作品の男キャラにとっては受け入れ難い傷(主観的には落ち度)として機能しやすいことがわかる。(「姉が奪われたのは自分の無力さが原因だ(自分の落ち度)」だと思っているから、ラインハルトはアンネローゼを何が何でも取り返そうとする)
つまり「『俺の女』に対しては、守る責任が生じる。だから守れなかった時の無力さは、男に大ダメージを与える」という構図がベースに存在している。
自分の中で印象に残っているのは「マヴァール年代記」で、主人公カルマーンが愛人のエフェミアを殺された時のエピソードだ。
皇帝であるカルマーンは侍女のエフェミアと「ありふれた情事」として付き合っていたが、自分の子供を妊娠したエフェミアが殺された時にすさまじい衝撃を受ける。
そこでカルマーンは自分にとってどれほどエフェミアが大事な存在だったかを気付くのだが、これは「俺の女なのに守れなかった(責任を果たせなかった)」というエピソードだ。
これ以外にもカルマーンは、領民を残虐非道に抑圧するドラゴシュを選帝侯の座につけてしまうなど、ラインハルトのヴェスターラントを彷彿とさせるやらかしを行っている。
「自分が間違った。だから自分が痛みを背負い、責任を取らなければいけない」
ラインハルトやカルマーンは、物語によってこういう詰められ方をえげつないほどされている。(アル戦でアルスラーンが奴隷を解放した時の話など、田中作品は「考えなしにやったことにはすさまじいしっぺ返しを食らうエピソード」が多く、主人公キャラに意外と厳しい)
ヤンはジェシカのことが好きだったが、関係を持っていない。
だからジェシカの死に対して責任が生じない。(という理屈が読み手にとってどうかはおいておいて、『傷』として機能しやすい構図から守られているということ)
「昔好きだった友人の女性が死んだ」という痛みをヤンに背負わせているという「作内描写」は、直球で言えば「ヤンも痛みを味わっている」というエクスキューズに過ぎない。
ヤンに自分が戦いを挑むことを知らせないことでヤンを免責しているビュコックの死もそうである。
「ジェシカはただの友人である」
「ビュコックが死地に赴くとは知らなかった」
手を変え品を変え、物語自体がヤンが「個人の責任を感じる状況」、そして「ヤンが責めを負うのが作外視点でも妥当」だと思う状況から守っている。
*自分はこういう「作内現実の事象の重みによって、作外視点では機能していないものがあたかも機能しているかのように見せる手法」が余り好きではない。ある程度は仕方ないとは思うけれど、ヤンはヤンというキャラ全体にこの手法が使われている。
◆ヤンは大ダメージを受ける批判から守られている「特等席」
ヤンが「当事者性を引き受けず責任を背負わないという構図」から(批判を受けないように)守られていることは、ジェシカに注目するとわかりやすい。
ヤンはトリューニヒトの戦争賛美を嫌悪している。
だがヤンはそれを正面からは批判しない。席を立たない、という(ユリアンに指摘された通り)子供っぽい反抗をするだけだ。
公衆の前で、面と向かってトリューニヒトを批判する責任を負うのはジェシカである。(ヤンは握手はするなど結局は受け入れる)
ヤンは軍人であるが戦争を唾棄しているというアンビバレンツを抱えている。
だがその矛盾も、「出世なさってね、という言葉は帝国側に彼女と同じ人間を作ることに気付いているだろうか」という風に、評論家目線になりジェシカに外部委託してしまう。
例えば上記に上げた「軍人であるのに戦争に反対」というヤンと似たような矛盾した状況を、「タイタニア」ではジュスランが抱えている。
ジュスランもヤンと同じように、自分自身もタイタニアの一員でありながら、評論家目線でタイタニアの論理に疑いを持たないイドリスを批評したりする。一点違うのはジュスランは「自分も結局は逆らえない」とはっきり自覚しているところだ。
逆らえない自分もタイタニアの価値を信じているイドリスも五十歩百歩であることをジュスラン自身が一番わかっており、そんな自分の在りようを嫌悪している。
またジュスランがタイタニアから脱け出せないのは、その生まれ(理屈ではない部分)が関わっている。
聡明で理性的なキャラが、そうであるがゆえに情動的な葛藤から脱け出せない状態はロイエンタールを彷彿させる。
他のキャラの状況と比べると、ヤンは、自己の矛盾した状態から生じる内部葛藤、それを解決したいと望みながら出来ないジレンマ、評論家目線になり当事者性から逃れられることへの批判から、物語(含む他キャラ)によって守られている。
ヤンのことを批判するのは、「戦死したモブキャラの母親」や「後世の歴史家」などだ。
それすらもユリアンなどから「でも、提督の指揮した部隊の生存率は他の部隊よりもいいのに」などとすぐに免罪される。
物も食べず睡眠もとらず、キルヒアイスの棺にずっと付き添っているラインハルトのような、「自分の判断ミスが取返しのつかない結果を招いてしまった痛切な後悔、罪悪感、自己嫌悪」「自分の行動にはここまで責任が問われるのだ」という重みとは無縁でいられる。
ヤンも批判されないわけではない、抑圧され苦労している部分もある。そういう恰好はついている。
「半分でも味方についてくれれば大したもの」という言葉があったが、このセリフが「ヤンという機能の無敵さ」をよく表している。
ロイエンタールが死んだ時にベルゲングリューンがラインハルトを批判したが、ラインハルトがヤンのセリフをベルゲングリューンに返せるか。
地の文で「これほどラインハルトを痛烈に批判をしたものはいない」と書かれているのを見れば、明らかだと思う。
「ヤン」はキャラであると同時に、「評論家目線に移動する機能を持つことで、個人的な痛みや責任、クリティカルな批判から『物語によって』守られ、接待されている特等席」なのだ。
◆「ヤンという機能」があるから、「銀河英雄伝説」はこれほど面白く愛される。
自分はヤンという人物にそこまで興味がわかないし、「ヤンという機能」自体はさほど好きではない。(申し訳ないがどちらかと言えば否定的だ)
でも「読者と融合できる俯瞰視点を持ちながら、読み手に愛着をわかせるキャラでもある」
そんな矛盾した要素を合わせ持つキャラが、不自然さがなく読み手に機能するように物語が構築されているところは凄いという言葉しか出てこない。
「個人がただの記号となる歴史」を俯瞰しながら、歴史においては可視できない個人の苦しみや葛藤をまざまざと見ることができる。そのふたつの視点を読者が自由自在に行ったり来たりしたり、同時に楽しむことさえ出来るのは「個人(物語の当事者)でいながら、その責任や痛みから逃れられるヤンという特等席」があるからだ。
「痛みと責任を背負い成長し続ける、主観視点を背負うラインハルト」の対比となる「銀河英雄伝説」のもう一人の主人公は、やはり「当事者性が欠如しているからこそ、個人でいながら全体を俯瞰で見ることもできるヤン」しか考えられない。
そう改めて思った。
*他の「銀英伝」の記事。
◆余談「タイタニア」について
ヤンというキャラを「評論家目線」に大きく偏らせたのが、ドクター・リーだ。
ドクター・リーは「タイタニアの滅亡」という論文を書くために、タイタニアを滅亡させようとしている。
俯瞰視点に基づいて主観的に行動する、という凄い(?)キャラである。
周りの誰ともうまくいかず「勝手にしろ、低能ども」(絵に描いたようなINTJ)と叫ぶのもさもありなんと思ってしまう。
自分はドクター・リーが凄く好きだが、こういう人物だと多くの人が感情移入するのは難しい。
評論家目線、俯瞰視点と言えば聞こえはいいが、要は上から目線なので、その目線のまま喋れば当然他人とトラブルが起きやすいし好かれない。
自分がヤンを好きになれず、ドクター・リーが好きなのは『他人からほとんど好かれないしうまくやっていけない』という評論家目線の負荷を負っているからだ。「主人公(当事者)でありながら評論家目線で物事を語り、批判も忌避もされない」は、なろう系チーレムなどよりも遥かに「非現実的な願望」だと思う。
「タイタニア」は一見 「銀英伝」と似たジャンルに見えて、上記の「非現実的な願望」の要素を抜いているという大きな違いがある。
そうすると「銀英伝」ほどは人気が出ないところが難しいんだなと思う。(違いはそこだけではないとは思うけれど)
「灼熱の竜騎兵」のペトロフとルシアンの関係は、「もしもヤンと少年時代のラインハルトが出会っていたら」というif設定のようで面白い。
続きは……出ないだろうな。