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素直に甘えられない私の苦しみから私を解放するために。(或いは、制圧された感情麻痺からの回復)
「どうしてこんなに甘えることが難しいのだろう」
そう、呆然と立ち尽くす人の気持ちをよく知っている。
(あの時、ああしていれば)
(なぜ、ああ言えなかったの?)
(簡単なことだったのに)
(ただ、助けてとか、ほら、もっと別な言い方でもよかったのに)
自分から背を向けて去っていくかつての愛し人の背中を見ながら、泣いたのはただ一度だけではない。
愛されないものにとって、それくらい、「甘える
あの木陰で、一緒に泣こう。
ヒトは、神様になることはできない。
けれど、誰もが神様になることを要求されているのかな、と、時折感じることがある。
それは、この世界で生きる上での「日常におけるあらゆる場面」で。
強く、美しく、凛として。
それは確かに理想で、「あるべき」あなたの姿なのだと思う。
けれど、それは本当か?
けれど、本当にそうならなければならないのか?
私たちは、神様にならなければ、本当に愛されないのか。
「見よう見まね」の愛
子供の頃、花火をどう見ていいかわからずに、泣きながら父に尋ねたことがある。
花火が上がって、パッと鮮やかに開いた次の瞬間には、もう闇に溶け込んで消えてしまう。それがとても悲しかった。消えてしまう閃光を心がどう追いかけていいかわからずにいた。
不思議なことを質問したなというように、父はなぜか優しく笑いながら、「ただ、パッと見て綺麗だねって思えばいいんだよ」と教えてくれた。
鮮やかな光が消えてし
震える雛鳥のような貴女へ
私が貴女を見るとき。
まるで、震える雛鳥のようだと思う。
貴女は前に進みたいと願いながらも、どこか過去の記憶に追われ、いつも心細げな、不安げな顔をしている。
貴女はそれをひた隠しに、なかったことにしようと、必死に自分の記憶と戦っているのだろうけれど、正直、私の目から見ればその横顔はとても美しく、ある夜、月下美人が密かに咲くように、鬼気迫る美しさがある。
それを、「いけないこと」とは思わない