輪郭
時計は4時23分をまわったところ。風の音が窓越しにびゅう、と聞こえる。
書くことに疲れると、こうして「感受性で書く」ことを始める。整合性も何もない文章だけれど、それでも「すき」と言ってくれる人がいることがありがたい。
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子供の頃から夜が好きだった。昼間の喧騒は、世の中が慌ただしく生き急いでいるように思えて好きではなかった。流れに乗れない自分がおいていかれているような気がして、一人取り残されている感覚、焦り。そうしたものが、夜、こうして世界が闇に包まれることで、なんだか中和されているようで、ホッとできた。
いつも「できない」という感覚があった。成績やテストなどはたまたまできることもあったけれど、それでも「私が優れているから当然なのだ」とは思えずにいた。拭っても拭きれない劣等感のようなものがいつも自分の中にあって、やってもやっても、それは埋まらない。結果が出たとしても、自分の中にある大きな空洞を埋める要素にはならない。
だから、夜になるととてもホッとできた。世の中が眠っているということは、自分が劣等感を感じる世界もまだ、眠りについているということ。
誰の目もない、ということが私の安心材料だった。それくらい、いつも何かに縛られながら生きている。
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こうして静寂に包まれていると、自分の生き方の癖が、まるで露わになる。
人の目を常に気にし、すなわち常に「生きている自分以外の人」に対して緊張をしている。その人に嫌われないかどうか。自分は果たしてちゃんと生きていると言えるのだろうか。もっと頑張らなければならないのでは。もっと完璧にならないといけないのでは。
こうした思考の中にいて、それをただ、「他人がそう思っているはず」と投影している。日常生活における極度の無意識的な緊張は、こうした「他者目線」から生まれているのだが、それすら自分が「それがあると仮定したもの」にしかすぎない。
私は私の仮定の中で、他人を「こういうものだ」と決め、その中で緊張を作り出し、緊張から生まれた反応によって、他人と相対している。
全て仮定の中で、現実という仮想空間を生きている。
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一方で、本当の自分が「あふれてくる」ときがある。
それは、本当にふとしたことだった。
花びらに水滴がついている。風が吹き、ふるると揺れて静かに落ちた。
ああ、綺麗。
その時、バラバラだった世界がひとつになったように思えた。仮定する何か=自分以外の視線や、仮定する何かに対して身構える自分も何もいない。「私」というマインドがなかった。ただ私は水滴に目を奪われ、太陽の光にきらきらと輝く「小さな水の中の世界」に囚われていた。それは一瞬のことだった。世界の片隅で、私以外気づくことのない、誰も承認していない事象。
私が目を背けてしまえば、なくなってしまう事実。
私と花と水滴と風の間にしかなかった時間。もう水滴はない。取り残された私と花と風と世界。
思わず周囲を見回したけれど、誰もそんなことに気をとめる人はいなかった。振り返る私に、訝しげな顔でサラリーマンが目をやり、通り過ぎる。
でも、愛しい時間は確かに私の中にあった。もしかしたらこれが「生きる」ことなのかもしれない。そう思えた瞬間だった。
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また夜が明ける。土曜といえども働いている人はたくさんいて、世界はまたいつもと同じように動き始める。それぞれの思いと、思惑と、そういった中に私も戻っていく。
けれど、
震えた水滴を、
観葉植物の葉が落ちる瞬間を、
感謝の言葉を受け取った時の言い知れぬ涙を、
人が自分の美しさに気づいた時の澄んだ表情を、
愛する人を抱きしめた時の自分しか知らない手の温もりを、
「私しか知らない尊い時間」を重ねていくことで、私はこの世界で「私」という輪郭を帯びていく。
曖昧だったそれはやがて感受性に変わり、「ふと」わきあがる「気持ち」として、思い出となって、記憶となって、私の一部となり、心を穏やかにし、視線を、表情を、言葉を、優しくさせる。
あふれてくる。
誰も観察することのない世界を、私だけがただ知っている。何者も介入することのできない「世界への想い」を、秘しながら愛でる。こうして今日も、「私」が輪郭を帯びていく。
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夜を終えて、太陽の下で、生きる。
今日めぐり逢う「あふれる心」が、また明日の私を形づくる。
15min+9min(途中寝落ち)
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