揺れる
ぶつけられた感情は、いったいどこにいくのだろう?
私たちの心はとても敏感で、ぶつけられた感情…それだけではなく、その背景にあるものを全て吸収してしまう。そのことに気づいたのは小学生の頃だった。
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学校で授業中、自分が空白になったような気持ちになる。空っぽ。本当は「気持ち」ですらない。ただ、自分がなくて、ただ、クラスメートや先生の言葉や感情が自分の中に入り、素通りしていく。多くの「個性」の中で、私がいなかった。存在としてはいたのだろうけれど、心の実感として、自分がその中で確かに生きているという感覚が得られない。同じ世界に住んでいるのに、まるで見えない透明な壁で、私と彼ら(クラスメートetc)とが区切られてしまっているようだ。
そう感じるには理由があって、子供の頃から「家」にいることは私にとって戦争だった。常に自分を数名の大人が取り巻いていて、それぞれの思惑と欲望に忠実に、自己主張しあっている。お互いの感情と意見という名の支配的な言葉によって、互いに拮抗しあっている。そんな緊張の中で生きていたものだから、学校にいくと、ぽかんとその世界から放り出された気持ちになったのだ。
同時に、平和な世界の中で自分を省みると、「ぶつけられた感情の残骸」ばかりがあった。
あの怒声はいやだ、というものから、あの怒声がいやだから、そうならないようにしようとか、だったら息を押し殺していようとか。
私の中はいつのまにかそういった「他人の感情の残骸」でいっぱいになっていて、それが人生の中心になっていた。
だから、平和な世界でも、「それが出る」。
感情の残骸のピースを丁寧に拾い集めるように、私はそこから感情的な、支配的な、自由のない、攻撃的な、抑圧的な、慣れ親しみ、自分の中にあるピースに当てはまるものばかりと引き合うようになる。
自分から丁寧に拾い集めにいっていたのに、その時はそのことがわからずにいた。
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ぶつけれたあの感情は、今、自分の中に確かに残っている。そう感じることが多い。
温かいコーヒーを入れながら、「あの時」のことをふと、思い出す。なぜ母はそこまで脆弱だったのか?なぜ父はあんな風に自分の娘を排除しなければならなかったのだろう?
今はその感情をただ反芻するだけではなく、知性という武器を手に入れて、「別の角度」からの「解釈」という昇華の仕方を選んでいる。
出す答えは、その時自分が置かれている状況や理解度、外的状況によってマチマチで、「愛がなかったから」という答えに行き着くこともあるし、「愛を知らなかったから」「わかってもらいたかったから」「幼児性」「何かしらの病気」など、様々だ。
でも、都度、考えては別の解釈を入れることで、おそらく「その時、感情に押しつぶされていた自分」を喪に伏し、もう受け入れなくていいよと自由にさせているのだろうと思う。儀式のようなもの。
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同時に思うことは、こうして繰り返し、与えられたものについて考え続けたり、自分が解釈を加えることは、一種の愛なのだろうということだ。
偏った愛。
再度、自分に愛を定義づける。こういった偏った愛よりも、純粋に分かりあったり、抱きしめあうことを望んでいた自分がいるはず。
あの時、投げつけられた感情に押しつぶされて支配されていた自分は、今、あの時の感情的な彼らをおそらく抱きしめることができる。
もしあの時、私が彼らを抱きしめることができていたら。
もしあの時、私があなたを抱きしめることができたとしたら。
あなたはきっと、そんなにも悲しい顔で背を向けるのではなく、もっと温かい笑顔を私に見せてくれたのでしょう。
揺れながら震える。引く波のように、あの時のお互いに向け合っていた激しい感情が消えていく。
想像してみるだけで、「何か」が自分の中に生まれる。空っぽじゃない。「ような気がする」。それでいい。
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悲しみに悲しみを重ねる必要はない。悲しみに支配され、圧倒され、自分が空白になる必要もない。
揺れながら生きる。波にたゆたうように。それでも大丈夫。生きているということは、愛せるということだから。
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