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素直に甘えられない私の苦しみから私を解放するために。(或いは、制圧された感情麻痺からの回復)

「どうしてこんなに甘えることが難しいのだろう」

そう、呆然と立ち尽くす人の気持ちをよく知っている。

(あの時、ああしていれば)

(なぜ、ああ言えなかったの?)

(簡単なことだったのに)

(ただ、助けてとか、ほら、もっと別な言い方でもよかったのに)

自分から背を向けて去っていくかつての愛し人の背中を見ながら、泣いたのはただ一度だけではない。

愛されないものにとって、それくらい、「甘える」ということは難しいことだということを知っている。身を切り裂くような辛さ。

甘えられなかったことを後悔しているのではない。

甘えられなかった自分、甘えようとしてその言葉が出なかった自分、その瞬間の自分に対する殺意にも似た憎悪に焼かれているのだ。

甘えることができないという絶望は、「愛されない」と願うすべての人にとって、何よりも乗り越え難い壁となる。

「彼に甘えましょう」と自己啓発の本は簡単にいうが、そう言われて達成できるのならばすぐに達成しているよ、と言いたくなってしまう気持ちがわかる。

なぜなら、「愛されたことのないもの」にとっては、「甘える」ということは、「自分の感情や欲求をとても素直にその瞬間感じて、屈託なく、ストレートに、いきなりぶっつけ本番で相手に表現する」というとても高度なことだからだ。そのためには、普段から自分の感情や感受性をつぶさに感じて、微妙な自分の心の移り変わりを敏感に察しているという「習慣」が必要になる。

言い換えれば、

子供時代に「愛された経験」があればこそ、簡単にできるもの。

ここでの「愛された経験」とは、感情を決して制圧されることなく、ただ屈託無く、その瞬間に生まれ出ずる「何か」あふれるものを、誰からも止められることなく感じられるという、圧倒的な自由。

「甘えられない」という問題点の裏には、「そもそも甘える以前に、感情を感じてストレートに表現することがとても怖いしできないし、そんなことを許されたことがない」からこそ、「感情を素直に感じること自体が怖い」という、「感情麻痺」という潜在意識的な問題が潜んでいる。極端な不安や恐怖は生存本能的に感じることはできても、それ以外の「悲しい(そして泣いてよかった)」「怖い(そして怖がった時に抱きしめられる)」「嬉しい(そして笑っていても誰も機嫌が悪くならない)」「嫌だ(そして嫌だという権利を許されている)」という細かな感情を普段から感じられていないと、「甘える」という高度な所作はできない。

では、なぜ「感情を素直に感じられなくなった」のだろう?

この背景には、「自分という存在が感情を自由に感じ、それを表現できることへの圧倒的な否定」がある。

泣いているときは「泣くな」

機嫌が悪くなってムッとする瞬間があると「可愛くない」

機嫌よくいると「いいわね、あなたは何も考えなくてよくて」

戸惑うと「ちゃんとやりなさい」

だるいなと思いながら行動すると「もっときちんとしなさい」

明らかな言語や目に見える態度だけではなく、「ちょっとした表情や仕草」からも、相手はこちらの感情の変化を感じとり、それを瞬時に「指摘→制圧」しようとしにかかる。

こうなると、自分が表現している感情そのものに言語での(あるいは存在そのもので向かってくるような)厳しい「制圧」が入るため、次第に無意識に「ああ、私は感情を表現してはいけないんだ」と思うようになっていく。

やがてそれが、「感情を感じてはいけない」に変わっていく。

そして、悲しいことに

悲しい時にも悲しいと伝えることができない

辛い時にも泣くことができない

あなたが必要だと思っていても、愛する人に対してその言葉のカケラすら出すことができない

震える物言わぬ自分という影だけが、この世界に残像としてとり残されていく。その辛さ。孤独。

このように、感情の制圧→麻痺の経緯には、必ず「厳しい言語での制圧」が存在する。叱責や禁止の言葉と、感じることへの罪がセットになっている。やがて、「感情を感じてはいけない」という命令は、「私は私であってはいけない」という「存在」への禁止にまでつながり、やがて「私は存在してはいけないのではないか?」という、自分自身を根底から揺るがすような絶望にまで発展していく。

では、こうして潜在意識に焼きついた「制圧」の結末を、どう変えていったらいいのか?

それにはまず、「自分が怯えずに自分の感情を感じてみる」ことが必要になる。

制圧のプロセスを一度体験してしまうと、実は「感情そのものを感じることが怖く」なる。まるで感情があることがいけないことかのように思ってしまうようになる。そして、誰かがいない一人きりの部屋にいたとしても、「周囲には誰もいない」とわかっていても、「自分が感情を感じるのは悪」だという思い込みが生まれる。

もちろんネガティヴなことだけではなく、「喜び・幸せ」といったことに対しても起きる。「感情そのものに触れることが罪」のように思えるようになるのだ。ここまでくると、とても強固な自己暗示がかかってしまっているので、それをまずは解いていく必要がある。

そっと、感じてみる。

最初は、誰もいない部屋で、それでも「架空の目の前にいない誰かの顔色を伺いながら」でいい。「怖かった」「嫌だった」などの、比較的感じやすいネガティヴな感情を感じていく。

「散々苦しんだ自分を解放してあげるために」と理由づけてもいい。

「もういい加減、私は支配から抜けてもいい」と、自分に言い聞かせてから始めたっていい。

あなたの脳は大義名分があると動きやすくなる。

そしてそれが終わったら、「笑う」「喜ぶ」「泣く」「嫌」という、より高度な感情を感じてみよう。大丈夫。あなたが漫画を読んでいて笑ったとしても、本当は誰も怒らない。怯えながらでいい、最初は2秒でいい。2秒であったとしても、感情を感じることに禁止がかかっている人にとっては、まるで永遠にも感じられる時間だと思うが、それでもやってみてほしい。

2秒できたら、次は、5秒できる。やがて、回数を繰り返すことで、あなたの脳は「もしかしたら感情を感じてもいいのかもしれない」と思えるようになっていく。そうなったら、もう大丈夫。安心して、感情を感じてしまっていい。

それができるようになったら、ようやく、他人がいる前で、素直に感情を感じることができるようになる。もうすっかり忘れているかもしれないが、このnoteのそもそもの目的は、「あなたが無邪気に甘えること」だ。無邪気に甘えるということは「感情を他人の前で素直に感じて、それを率直に表現すること」。すべてはそこにつながるためのプロセス。長かった。おつかれさまでした。

笑いたい時に、笑えること

あなたが大好きだと、好きだと思った瞬間に伝えられること

苦しいと思った時に、ぎゅっとしがみつけること

助けて、を、言葉やあるいは文字で伝えられること。

悪魔が発した言葉に自分を閉じ込めないで。

あるいは、それが「過去に与えられた神からの絶対的な命令」であったとしても。

あなたは神に縛られる必要はないし、神ですらあなたの心を縛ることはできない。

自分の命が自分のものだということ。それは、「素直に甘えられる=自分の感情を自分のものとして扱う」ということと、同義なのだ。

我思う、故に、我あり。

あなたはここに、存在していていい。

誰が、どんな風に、あなたを制圧しにかかったとしても、あなたが生きることを誰も止めることはできない。





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