28/08/2020:『Fast Car』

オフィスが入っているのはビルの11階で僕のデスク裏の窓から見下ろすと、そこにはトタン屋根が連なっていた。サッカーコートくらいある敷地の右上一角、そこだけブロック塀でL型に切り抜かれ断絶されるようにして、それは連なっていた。元々が何色だったのか分からないくらいに屋根は錆び付いていて、そこに結わえる形で電力ケーブルがぶらぶらと浮いていた。敷地のすぐ外の電信柱にあるボックス型のパネルから直接伸びたその電線は、きっと正規のものではなく、彼らが勝手に引っ張ってきたものだろう。

「すみません。先月提出したプロジェクトについてなのですが…。」

僕は受話器越しに聞こえる声を意識の半分だけで聞いて、後の半分はその断絶されたトタン屋根を見ていた。

日本を離れて2年が経った。日本語だろうがこちらの言葉だろうが、もう関係なくらいに僕の脳みそと体は慣れきっていた。

洗濯物たちが揺れている。砂利に直接刺した棒に簡単なタコ紐のようなものを渡している。

「あ、はい。どうされましたか。」

案件の見積書に変更があったらしく、改めて提出し直したいと言ってきた。

「もちろんです。ですが、その場合、代表者のサインが入ったレターも必要になります。変更の理由とそれに伴う補償負担の文面も込みで、えぇ、お願いします。」

電話を切ると思わずため息が出た。見積もりの変更も保証の負担も彼らにとっては重大なことなのかもしれないが、今の僕にとっては、何1つ共感できる要素はなかった。半月前はあんなに必死になって書類を集めたのに。

下を見やると、子供たちが駆け回っている。洗濯物を掻い潜って、走る。誰が誰を追いかけているのかは分からない。もしかすると、ルールなんてものはなくて、駆け回ることに重きをおいた行動なのかもしれない。

広大な敷地の残りの部分では、盛大な工事が行われていた。一ヶ月前に重機が土地をリセットして全てを消し去ると、今度はおびただしいほどのコンクリートブロックを並べ始めている。きっと駐車場にでもするんだろう。

作業員たちは機械的にブロックを並べ、はめていく。

子供だちはただ無秩序に隔離された空間を走り回っている。

僕は一番高いところからそれを眺めていた。

                 ・・・

「え、何、そんな仕事すんの。立派じゃない。」

がやがやと大きな声で話す群衆、無視できない音量の有線。彼女はそれらに負けないくらいに声を張って驚いた。8時半の居酒屋チェーンは一律価格に設定されたメニューと酒で溢れかえっている。

「何も、こんなところで。」

と、僕は言ったのだが、彼女は、

「いいのよ、こんなところが。」

と、言って先に店に入ってしまった。大都会の誰もが知っている企業に新卒で入社してから1年半。だいぶ垢抜けた雰囲気の彼女だったが、

「そういうのは、今はいい。今日は違う。」

らしかった。いろんな意味で戦場と化した彼女のキャリアは、きっと僕が思っている以上に過酷なんだろう。

ハイペースでレモンチューハイを空ける彼女は、頼むおつまみもそれに見合うくらいに荒々しいものばかりで、ついて行けなくなった僕は途中からナスの浅漬けと山芋短冊に集中していた。

「結局、残るのは孤独だけな気がするの。」

と、彼女は言った。

「いつ汗をかいたか分からないくらいに走り回って仕事をする。この書類が、さっきの会議が最後にはどんな形になっているかも分からないまま。そんなことを9時5時でやっただけで、アホみたいにお金をもらうの。アホなほどよ。そして、同僚とお店に行けば、誰かが連れてきた男の人がいて、今まで食べたこともないようなものをその人にご馳走してもらう。」

すごいなぁ、と思った。僕は大学を卒業してから、大学生だった頃よりも貧乏だったから、単純に羨ましかった。やりたいことをやりたい所で仕事にしたかった。だから、僕はその時を待つことにした。1年半。ただ研究室にこもって何千という論文を読んで、一週間通して焚き火ができるくらいのレジュメを書いた。

「それがやっと結果につながったんじゃない。おめでとう。誰かのために働くこと、これを超えるほどに素晴らしいものはそうないわ。」

と、彼女はギリギリ呂律の回るスピードで言った。

居酒屋の照明はあまりにも明るくて、僕は目が疲れていたのか、彼女の顔がぼやけていた。それは少しさみしそうにも見えた。

                 ・・・

これから真新しくオープンする駐車場の脇、隔離されたトタン屋根はそこだけが敷地の中で浮いていて、どうして放っておいているんだろうと思う。

だけど、その隔離されたトタン屋根の下には、ここから見える子供たちに加えて、きっと彼らの親やその他大人たちが住んでいる。夜になればきっと汚れた体を水しか出ないシャワーで洗い流して、盗んだ電気を使ってTVを見て眠りにつく。長屋の小さな部屋では、みんなくっ付いて寝るのだろうか。そうしたら寒くないなぁと思った。

彼らを追いやることには賛成できないけど、彼らがそうして留まることで浮き彫りになる駐車場とトタン屋根の明暗の振れ幅が僕の胸をざわざわとさせた。

「でも、彼らが幸せならいいのか。人生ってそんなもんなのか。」

と、思った。だったら、他人との関わり合いというのは、どこまで許されるものなんだろう、とも。

彼女がかけてくれた言葉が2年間僕の中でずっと響き続けていた。でも、響き続けるだけで、実際の僕はただトタン屋根を見下ろすことしかできていない。

どんな答えが正しいのか、分からなくなっていた。

子供たちは休むことなく走り回っている。

壁の反対側では作業員たちが黙々とブロックを並べ続ける。

僕はただそれを見下ろすだけで、電話が鳴っても少しの間取らずにいた。

                 ・・・

今日も夜が来ました。

Tracy Chapmanで『Fast Car』。


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