09/07/2020:『Travellin' Man』
タクシー 1
僕と同じくらいの年のタクシードライバーは古い歌をかけていた。
「初めて言われたよ、よく知ってるね。どこまで行くんだい。」
仕事終わりに一雨きそうな空だった。普段なら運動も兼ねて30分ほど家まで歩くのだが、今日は安全策を取ることにした。
「国道沿いの薬局を曲がったところのマンションまで。」
日本の初乗り料金の何十分の1かでタクシーは走っている。どうやって生計を立てているのかいつも不思議だった。
「ここの人じゃないね。」
「ああ、そうだよ。日本から来て、そして今はここに住んでいる。」
タクシーの中で運転手から会話が投げかけられる。この国では車で黙っていることの方が難しい。
「遠いね。僕はこの国から出たこともないや。」
彼はウィンカーを出しながら呟いた。雨がフロントガラスを濡らし始めてきた。
どこか行きたい国でもあるのか、と聞こうとしたとき、彼はアルバムの曲を一つ飛ばして、お気に入りの曲にした。
「んー、あるんだろうけど、分からない。ただ、どこかさ。」
カーステレオからは世界を回る旅の中で恋をする男を歌った曲が流れていた。
「僕は旅人さ。
世界中を巡る旅の途中、
港港で、素敵な恋に落ちるんだ。」
リマスターされていないザラついた音が、車を濡らす雨の音と合わさって、スピーカーを揺らした。
・・・
レストラン 1
レストランで食事をしていると、いきなり声をかけられた。
「あなた、この人じゃなくって?」
ケータイをかざしてきたので、画面を除くとそこには中国人らしき人の名前が書かれている。
「いいえ、すみません、僕じゃないです。」
「そう、それは失礼しました。コーディネーターと待ち合わせをしているのだけれど。お邪魔してごめんなさい。」
そういうと彼女は僕のテーブルから2つ向こうの席についた。紺色のワンピースに金髪をまとめ、ヒールのないサンダルを履いていた。
レストランでは生バンドの演奏が始まって、食事中の客たちも立ち上がり踊り始める。
僕はステージから一番遠い端っこのテーブルからそれを眺めていた。一日中、旧市街を歩いて夏の空気を目いっぱい浴びたからちょっと疲れていたし、窓から入る少し涼しい夜風が気持ち良くて、そのままビールを飲んでいたかった。
ふと目線を戻すとさっきの彼女と目があった。彼女は白ワインの入ったグラスを少し掲げて僕に微笑んだ。さっきはごめんなさい、そういう仕草だった。
でも、それだけではなかった。
ある種の特別な瞬間があるとして、その後何が起こるかが先取りのスローモションのように頭に浮かんでくる。今がその時だった。
眉毛を上げて、こちらこそと合図をすると、今度は彼女が口をほんの尖らせ自分の前の椅子を差しながら、ここ空いているわよと教えてくる。僕が少しおどけた表情を浮かべると、いいじゃないのと首をくいっと傾けた。
僕はウェイターを呼び自分のテーブルの会計を済ますと、席を移った。
・・・
タクシー 2
雨が降り一気に車の数が増えた気がする。いつもは渋滞するはずのないところにまでテールランプが重なり合って、最初から一列になって走っていたかのような距離まで車間が狭まる。
「しばらく動かないかもね。」
若いドライバーはハンドルから手を離した。指で太ももを叩く。流れる曲のドラムに合わせて。
彼はもう結婚していて、子供が3人いる。下の2人は男女の双子で、彼らが生まれてきたとき、彼はどちらを先に抱けばいいのか分からなくなって、そのまま2人が休んでいるベッドに覆い被さったらしい。
「だって、どうしたらよかったんだよ。」
僕は、それが正解だったと思う、と答えておいた。
「そんな幸せなのに、今みたいにふらふらと旅をしながら恋をする曲を聴いているのかい。」
と、投げかけてみた。彼は、少し考えると、
「こうであったかもしれない未来への憧れ、じゃないかな。」
と、だけ答えて、また指で太ももを叩き始めた。
僕は指で窓の水滴を拭き取った。
・・・
レストラン 2
彼女はドイツから来たフリーランスのライターで、環境と食事、という名前の雑誌に連載を持っているらしい。
「でも、環境にいい食材ほど、栽培と購入にはお金と手間がかかっていて、結局は他と引き分け。何を食べたらいいか分からなくなってしまったの。」
物を書くにあたって、事前に、同時に、その何倍もの時間をかけて対象と向き合わなければならない。そしてその作業は決して環境にいいとは言えない。
「そうして環境のことばかり考えていた時に、姉が事故で亡くなった。葬式が終わって部屋を片付けた後、私は環境のことよりも自分のことを考えなきゃいけないと思ったわ。」
だから、長い休暇を取ってこの島へやって来た。
僕は大学で農学を教えているから、彼女の言うことー環境と食事ーはよく分かった。人間が生きていくことと、自然が自然のままでいることはどうしても同時進行で推進してくことはできない。いや、できるのだが、今のスピードを保つことと、これ以上の数を支えることはできない。
日々、学生たちと土を弄り、顕微鏡で覗いて、ホワイトボードに化学式を書いていた。そして、ある日水性マーカーの匂いが僕の心に黒く染み渡ると、そこから僕は動けなくなってしまった。呆然と立ち尽くす僕を学生たちは心配そうに見つめていた。そして、ちょうどそのまま夏休みに入る時期だったので、畑の世話をゼミ生に任せて飛行機へ飛び乗った。
それでも彼女は環境にいい食事と向き合っているからか、肌はキメが細かく、髪の毛にもツヤがあった。
でも誰かを失ったからか、少し痩けた頬と目尻の皺が、彼女に影を落としていた。
ライブ音楽は盛り上がりを増していた。店内の客のほとんどは食事を放ったらかし、踊っていた。ウェイターと踊る老婦人のグループもいたし、訳も分からず巻き込まれた日本人観光客らしき姿もあった。
彼女を誘って乗り込もうとも思ったが、やめておいた。
彼女はただ、ダンスを眺めていた。
僕はそのまま、彼女の横顔を見つめることにした。
・・・
タクシー 3
結局歩くのと同じくらいの時間がかかってしまった。
「着いた途端に雨が止む。」
ドライバーは空を見上げて微笑んだ。今日はもうまっすぐ帰るらしい。双子をお風呂に入れなければならない。
「こうであったかもしれない未来よりも、いい顔してるんじゃないか。」
と、多めに料金を渡した。
「ありがとう。でも、それは分からないさ。だって、こうであったかもしれない未来、あんた楽しんでるだろ?」
笑顔のままドアを閉めた。
雨は完全に上がって、塵が消え去った空気は澄み渡り、濡れたアスファルトの匂いが心地よく体に入ってくる。
「僕は旅人さ。
世界中を巡る旅の途中、
港港で、素敵な恋に落ちるんだ。」
飛沫を上げるタクシーは、ダンスに加わるように走り去って行った。
・・・
今日も等しく夜が来ました。
旅で少しだけ抱いた感情は、何だかんだずっとそのままです。
そして、何かを期待してまた旅に出るのでしょう。
Ricky Nelsonで『Travelin' Man』。
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