その木にもたれて ① 斎藤緋七
「街外れの森の横を通るだけで気持ちが悪い」
私が言うと、
「あの森で同級生が首を吊って死んだ」
子どものころから森の土地の近くにずっと住んでいる女友達が言った。そんな会話を交わしたことを懐かしく思う。 あれから、何年たったのか分からない。あんなに気持ちが悪いと思いながらいつも横を過ぎていたのに、この森は私の実家が所有していることを成人してから知った。私とここは不思議な縁があるのかも知れない。この昼間でも暗い森は、今となっては私の唯一の居場所となった。私はこの森に住んでいる。
「怜子ちゃんには霊感でもあるの? 」
「まったくないけど、暗いし、気持ちが悪いだもん」
もう、そんな悠長なことを言っている暇はなくなった。二十三、四の頃から、私は男なしではいられない身体になってしまった。きっかけや原因は分からない。何かあったかも知れないけど忘れてしまった。 私のような女を色情狂というらしい。それも近知ったばかりだ。早朝から男がやって来た。
「よう! ビッチ。また来てやったぜ」
この人の名前は知らないなあ、と思いながら私は食べ物の催促をした、
「やらせろよ」
名前は知らないがなじみの男は言った。早く食べたくて、私は少し抵抗した。
「なんだ? 珍しいな。抵抗か? 」
「とにかくお腹がすいているんです、おにぎりを先に食べたいの。いいですか」
昨日の夕方から何も食べていなかった。その場で座り込み、私はガツガツとこんぶの入ったおにぎりを食べた。
「美味しい。美味しい」
夢中で食べる私を男は見下ろしていた。男は黙ってペットボトルを一本くれた出されたお茶を飲んだ。
「美味しかった、ありがとう」
「ビッチ。お前、幾つだ」
「えっと、四十五」
「四十五歳か。おばさんの年齢だな。いつからこんな生活をしている? 」
男はまじまじと私の顔を見ている。
「お前は整った綺麗な顔だちをしている。薄汚れているのがもったいないくらいだ。こんな美人が何をどう間違った? 」
そんなこと聞かれてもなあ、と思った。
「わかりません」
男は黙って鮭のおにぎりに手を伸ばす、私を見ていた。
「自分のことが、あんまり分からないんす」
私はひたすら食べた。男は黙って無言で食べ続ける私を見ていた。そしてさっさと性交をすませて去っていった。
私は毎日、三~四人の男に抱かれている。身体を預ける見返りはコンビニエンスストアに並んでいるおにぎりを最低二個とペットボトルに入っている緑茶を一本。クリームの入った甘い菓子パンとカフェオレでもいい。食べ物を買ってきて与えてくれることがセックスをする最低限の条件だ。いつの間にかこの生活を送るようになっていた。私は毎日、その昔孤独な中学生が自殺した森の中で男を相手に性行為だけをしてその日その日をなんとかやりすごしていた。運が良ければ、
「これで、銭湯にでも行ってこい」
そう言って小銭を七百円くらいくれたりする人が来るときもある。
「たまには着替えろ」
古いがきちんと洗濯してある衣類を持ってきてくれる人もいる。
「最近、寒くなって来たから、これでなんとか冬場をしのぎなさい」
毛布を持ってきてくれる親切な人もいる。お礼を言って私はそれらを受け取る。
衣類の差し入れや小銭をもらえると嬉しい。
二個目のおにぎりを食べ終わったのを確認してから男は言った。
「ビッチ。食い終わったら、さっさと、その木にもたれろ」
私はいつの間にか、ビッチと呼ばれるようになっていた。山田怜子が私の本名なのに本当の名前で呼んでくれる男はいない。たまに、男たちは皆、ビッチと私を呼ぶ。私はビッチになってしまった。
「何度、お前のことを抱いたかな」
鬱陶しいことを言わないで欲しい。いちいち覚えていない。そう思いながら私は感じているふりをしてさっさと性交を済ませた。
朝からクロブチさんがきた。クロブチさんとは私がかってにそう読んでいるあだ名のようなモノだ。比較的、穏やかなクロブチさんのことは嫌いではなかった。たまに見せる凶暴性も男性には多少ある許容範囲だと思っていた。私はクロブチさんを嫌いだと思ったことは一度もない。
「クロブチさん、聞いていい? クロブチさんは立ったままセックスするのが好きなの? 」
「そうだ」
クロブチさんは、
「ビッチ、早く下着をとれ」
珍しく、イライラしているようだ。いつものクロブチさんはもっと優しい。こんな言い方はしない。私は黙ってパンティを脱いだ。しばらくはきっぱなしなので、異臭がしている。
「なんだ。もう、予備がないのか? 今度、百均でパンツを買ってきてやるよ。三枚でいいか? 好きな色は? 」
私は、
「色はなんでもいい。それよりクロブチさん、コンドームをつけて下さい」
「とっくに閉経しているんだろ? 」
確かに閉経はしている。この歳で閉経は早いのだろうか。栄養不足か何かで止まっているだけかも知れない、でも、性病予防のためにもコンドームはつけて欲しい。私の言うことを聞いてくれないままクロブチさんは行為を続けた。私の足の間からドロリと濃いクロブチさんの放った精液が流れでた。
「拭いておけよ、次の男のためにな」
ポケットティッシュをくれた。
「またな、ビッチ」
クロブチさんは奥さんのママチャリに乗って帰って行った。いつも、日曜日の朝に来る。クロブチさんのことは嫌いではない。むしろ好きなのかも知れない。だからこそ物足りない。
心底嫌いな男に抱かれる時の不可思議な快感に身体を貫かれているときが一番幸せを感じる。いつから私はこんな風になってしまったのだろう。午後一番に来た男を私は心の中でバーコード松浦と呼んでいた。バーコード松浦はケチな男だった。いつもブラックコーヒーしか持ってきてくれない。
「食い物は次の男に期待するんだな」
などと言いながら、ほら、と言って投げてよこした。バーコード松浦は今日で五、六回目くらいだろうか。すっかり、常連のような態度をとっている。このバーコード頭の男は既に男として役にたたない。だから、木の幹に押さえつけた私の身体をなめまわすことしかしない。バーコード松浦はそれだけで満足して帰る。下の名前は知らない。一応、妻帯者らしくこそこそと帰って行くバーコード松浦の後ろ姿はいつみても間が抜けていて面白いと思う。クロブチさんの残した白い液体が私の足に固まってこびりついている。
「なんだ、朝から先客がいたのか」
「いました」
「怒ったりはしないけどな。所詮お前は公衆便所だ。共有で使える穴でしかない。
「たまにはこんなこともあるか」
今日もバーコード松浦は私をなめ回している。
「禿」
「何か言ったか」
「何も」
答えた。
「早く終わって欲しいと思う。多分、私は禿げた男が生理的に嫌いなのだ。
「お前はこれが気持ち良くないのか」
それに、私はぺちゃくちゃと行為の間に喋る男が大嫌いだ。
「なんとか言えよ! このビッチ! 」
急にバーコード松浦に頬を叩かれた。驚いたけどこれしきのことは何でもない。
「乱暴に扱ってくれないと感じないの」
「この、ドM女が! 」
勃起もしないくせに。
「おい、ビッチ。感じたふりくらいしろよ。面白くもないやつだ。こっちはコーヒーを恵んでやっているんだからな」
その程度の出費でバーコード松浦は何か文句を言っている。禿げ散らかしたケチな男のくせに。十年早い。
「ミルクの入ったカフェオレの方が好きです。それに今度から甘い菓子パンかおにぎりも飲み物と一緒に持ってきてください。ここにも、一応、ルールがあるの。唯一のルールです」
そう私が言うとバーコード松浦は、
「細かいことを言うな、この乞食女」
こじきおんな? 私はその言葉を真に受けることにした。あだ名が一つ増えた。こじきおんな、だ。
その日の三番目の客は、はじめて見る若い男の子だった。
「初めての方ですね」
その男の子はまっ赤になっている。
「あなたのことを噂で聞いて好奇心で来て見ただけです。ただの野次馬です」
年を聞いてみるとやっと二十二歳になたばかりだと言った。
「何が好きか分からなかったから女の人の好きそうな物を買ってきて来ました」
「全部、いただけるんですか」
コンビニエンスストアの袋を差し出して、恥ずかしいのか下を向いている。
「こんなに沢山? 悪いわ」
バラエティーにとんだ食べ物たち! プリンやゼリーまで入っている!
「食べて下さい」
「いただくわ。嬉しい、ありがとう」
「あの、名前を教えてください」
初々しくて可愛いと思った。この場には似合わないほど清潔感のある青年。
「まず、僕が名前を言いますね。僕は時生と言います」
「トキオくんって言うの? 漢字は? 」
「時間の時に生き物の生です」
「私は、ビッチと呼ばれています。本当の名前はれい子だったと思います。でも、私の本名なんて誰も知らないわ。聞かれたこともない」
「れい子さん? 」
「ビッチって呼ばれているから、れい子って名乗るときには戸惑ってしまう」
「あの、僕。二十二歳にもなって、勉強しかして来なかったから、この年でキスの経験しかなくて。正直に言うと女性に馬鹿にされるのが恐いんです」
見るからに真面目な若い男性。私にもこんな頃があった。 あの日まで私の世界は輝いていた。思い出してしまう。
「私は、そのことであなたを馬鹿にしたりはしませんよ」
「あのう、れい子さん? 」
トキオくんは「あの、気に触ったらごめんなさい」と、言った。
「何でしょう」
このまま、何もしないで帰るつもりなのかしら。こんな人は初めてだった。
「れい子さんってきれいな顔だちをしている。僕、初任給を昨日もらったばかりなんです。食べ終わったら、一緒にスーパー銭湯に行きませんか」
「スーパー銭湯なんて! トキオくんにそんなことをしてもらう理由がないわ」
私が言うと、
「僕が好きでやることだから。綺麗な下着も買いましょう。れい子さんが気に入る、新しい洋服も」
トキオくんは笑っている。
「ダメ。でも、気持ちは嬉しいわ」
私は断っているつもりだった。でも、トキオくんは私の話など聞いていない。
「美容院にも行きましょう、れい子さんはセミロングが似合うと思う。僕、おしゃれにしか興味がない姉がいるので、普通の男よりは少し詳しいんですよ」
美容院? まるで別の国の古びた言葉を聞いているようだ。この森でただ生きてい
るだけの私が? 私には綺麗とかそんな言葉は似合わない。
「少し手を加えるだけで、れい子さんは見違えるほど綺麗に変身できるはずです」
トキオくんは言う。どうしてここまで?
「頑張って働いてもらった、お給料なんでしょう? 私なんかに使ってはいけないわ。親御さんにご馳走するとか、自分の欲しいものを買えばいいのに」
「欲しいものなんかないし。それより知りたいんです、れい子さんのこと。それだけでは理由になりませんか? 」
私は黙ってしまった。
「僕の気持ちは迷惑でしょうか? 」
「あなたみたいな男性は初めてだから。迷惑ではなくて戸惑っているだけです」
「そんなに珍しいですか」
「かなり」
「あははは。でも、ちょっとした、プリテイーウーマンみたいでしょう? 」
トキオくんは笑っている。そこに、常連の井上がやって来てしまった。
「なんだ、先客か。お前幾つだ? まだガキンコじゃないか」
「僕は帰った方がいいようですね。れい子さん、また来ます」
私はトキオくんに頭を下げた。
「本当にありがとう」
私の言葉を遮るように井上は言った。井上はいつも口調が荒々しい。
「時間がない。早くその木にもたれろ」
私は黙っていつものように木にもたれ、自分で下着を下げた。
「飲み物は」
「持ってきた。ほら」
私の足下に、冷たくも暖かくもないカフェオレを投げた。よく見ると賞味期限が半年以上も過ぎていた。
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