人間関係は幸福感を左右する 逃げ癖は生きるために必要です 安息の地が見つかるまで逃げましょう 【原題 : 結局全部、人間関係】

※この記事は句読点無しめで書かれています
※この記事は自由な改行で書かれています

紆余曲折の経て
つまり
この記事を書くことにより纏められた結論
それを先ず示してみることにします

国も家も学校も職場も
そこに元々いる人間とか
一緒になる人間によって
過ごしやすさや自由さ
幸福感や満足度が大きく変わる
だから
自分に合った場を確保することが
恐らく
主観的幸せに寄与するよ
そんな話

そしてその前に結論としていたものは次の通り

人間関係は主観的な人生の幸福感を左右する
満足度と言っても差し支えないかもしれません

また
脇道としてこの記事ではこんなことも言ってます

⚫︎「逃げ癖」と下げられる行為の肯定
「人は変わらない自分は変えられる」ではなく
「人は変わらない場所は変えられる」のススメ

⚫︎「正しい」「間違い」という決めつけを世界的事実に昇華しようと拘ることを非推薦とし、「真」「偽」をあくまでも主観と弁えた上で表明ことを推薦する

⚫︎世間一般でまことしやかに噂される正しさでは願望を叶えられないからみんな夢破れているか、またはやりたいことがないような人間が惰性で正しさに縋っているに過ぎないのではないか、正しさに拘ることによって得られるものよりも、わたしは自分の中の思いや想い、感じ、考えなどの主観的真を重視したい

それでは本文へいってみましょう!



ハローエブリワン
今日はどんな一日でしたかい?
まぁどんなであってもわたしはそれを知り得ないのですが…
まだ気が早いという人もおられるでしょう
早寝する人でなければ
日付変更まではまだたっぷり3時間半もありますからね(この時点では2023/04/16/20:24)
なので
よかったら読んでってください
わるかったらお大事に
無だったら無
そんな感じ

結局全てが人間関係  と思い至る経緯

ずーっと「そうじゃないか」と感じていて
そして最近更に
「やっぱりそうだよなぁ」
としみじみ思っている
思い知っている
ことがあります
それは
職場の心地よさの殆どは人間関係
ということ

ずっと思っていたのに
この度態々書くに至った次第
としては
前回の記事である
ピノキオピーの紹介(?)記事
中で
ピノキオピーの下記note記事を紹介したこと

そしてその書き出しが下記であったこと

バイトをするにあたって、一番大事なのは結局人間関係だなと思う。

をきっかけとして
次のように思ったことが発端です

生い立ちやら現在の生活の苦痛(騒音)やら、そういえば交友も師事も何もかもが、つまるところ人間関係と呼べるではないか

わたしはかつて
「結局全て、環境である」
という旨の記事を書いています

それを新たに言い換えた形
ともいえるかもしれません

それよりもより具体的に
何が肝要であるか
を物語っているとも感じます

環境と人間関係では
微妙に重視していることが異なっています
ので
説明させていただきます

環境と人間関係という表現の根底にある"重視していること"の違い

環境 は 物理的事実 による人格形成や能力形成 ひいては人生を左右する ということ

環境が示す範囲は広く
また様々な点に着目し
「一個人の生育,人生を左右する,決定づける要素」
として挙げられていました

環境は人間以外のものも指せます
たとえば金銭状況や
それによる住居だとか
親の在宅如何
家事を誰がしてたかとか
お小遣いをどれくらい貰えていたかだとか
勉強を教えてもらえていたかなど
学校はどんな風で
クラスはどうで
どんな教師やクラスメイトだったか
など
また
その街がどんなところであったか
その街にどんな人が訪れて
どんな催しがなされたか
など
非常に広く
家庭環境
学校環境
交友環境
などについて
それらが如何に個人の人格形成やら
それによる人生の道筋に影響を与えるか
それを「説明した」までです
では人間関係はどうか

人間関係 は 主観的幸不幸感 を左右する 人によって組み合わせ相性の異なること

前途の環境は
この人間関係さえも含めて環境と述べており
別のもの
というよりは
環境が人間関係を含んでいる
という図であるのでしょう
書きながら頭が働き
段々と整理がついてきております

重要なのは

環境は物理的事実で人生を物理的に左右する
人間関係は主観的で人生の幸福感を左右する
そして環境は人間関係を含む

という3点であると思えます

如何に人間関係が人生の幸福感を左右するか

わたしの生い立ちからくる苦痛




彼らとの問題
それらも人間関係であると言えると思います
彼らがまともであれば
わたしは児童淫行もパワハラモラハラも受けず
もう少し健やかに育てていたことでしょう
少なくとも今わたしが持つ苦痛はないわけです
これは
「家族がどんな人間であるか」
そしてそれに起因して
「その家族とどんな力関係、空気感にあるか」
という人間関係の問題に思えます
彼らとの関係が良好であればもう少し幸福感
満足度が高められていたのではないかと

職場だってそうでしょう
上長や同僚がどんな人間であるか
そしてそれに起因して
彼らとのどんな関係を築けるか
これに居心地が殆ど左右されます
個人的には家族にせよ職場にせよ
「元々その集団に先にいる人間がどんな人か」
これが関係の殆どを占めると思っています

重箱の隅を突いてくる人間か
感情的な人間か
暴力を振るう人間か
性的暴力を行う人間か
何を許せる人間か
頭のいい人間か
教え方の上手い人間か
面白い話のできる人間か
一緒に楽しもうとする人間か
楽することサボることしか考えてない人間か
出力の品質を高めることに取り組む人間か
自己実現や技能習得に貪欲な人間か
勉強熱心か
雑談ができる人間か
クソ真面目か

挙げはじめればご覧の様にキリがありませんが
「自分がもっと違う人間ならば」
確かに彼らがどうであれ
関係性も変わりましょう
しかし
現に自分は自分でしかないのです
他の人にはなれないのです
もちろん
なろうと自分を変化させること
それは可能です
それがよくいう
「人は変わらない、自分が変わればいい」
というクソキモい言説の正体でありましょう
ですが
「それって幸せですか?」
ということです
「それで本当に満足ですか?」
とも
無理やり他人に合わせて自分を変える
それを楽しいと思えるマインドも
まあお持ちの方もいらっしゃるかもれませんね
色んな人がいますからね
しかし
少なくともわたしは
そこに幸福や楽しみは見出せません
寧ろ
「人は変わらない、場所を変えればいい」
わたしはこう考えます
前途の「自分が変われ」信者はこれをきっと
「逃げ癖」
と呼ぶでしょう
非常に体育会的な思想だと感じます
ハッキリ言ってわたしはそれがキライです
それがもし全面的に全人類に正しいのであれば
もっとわたし的に言えば
それによって誰しも幸福になるというのならば
自殺者がこんなに大量発生しないと思います
都合の悪いこと
自分ではない人のこと
自分の様になれないひとのこと
それを全て無視して
おれみたいになれ!
というのは
あまりに乱暴者
脳筋思想だと言わざるを得ません
もちろんこれはわたしの主観ですよ?
きっと脳筋はそんなこともわかってないから
書きますけれど
まあそも
彼らはこんな長文
読めないでしょうし
一面的正しさを支持するきらいがあるので
句読点がなく代わりに改行を使うこの
現代っ子などにみられるやり口を
脳筋に
批判するのかもしれませんね
閑話休題
わたしは彼らの言うところの
「逃げ癖」
を推進します
逃げましょう
脳筋体育会系は
「どこ行ってもおんなじ」
なんて
わかりもしねーはずのことを
神にでもなったつもりなのか言ってきます
そういうやつに限って
対して苦労なんかしてないわけです
だから自分が正しいと盲信でき
他人の痛みに共感できず
高圧的に抑えつけるしか能がないのです
探せばあります
自分にとって心地いい人間環境を築ける場は

学校生活
この満足度を大きく左右するのも
やはり人間関係ではないでしょうか
学校は職場よりも更に
場を変えることが難しいものでしょう
何故ならば
その決定権と実効力
通常は子供たちが持ちえている筈ないからです
親に相談して転校
それは可能でしょうが
二度以上転校する
そういうことが
転職に比べて実現可能性が低いのではと
何故ならば他人の意思
他人の決定を必要とするからです
それは親なりそれに相当するつまり保護者です
ここでやはり体育会系は噛み付いてきます
「親に向かって他人とはなんだ」と
そう言う意味じゃねーんだわ
「自分でない人間」
を表す言葉が他にあるならば
それを使いますが
その為に別途用意された言葉
そんなものはない様に思います
だから「他人」と呼称します
こんなことを態々説明しなきゃならないのです
本当にめんどくさいですね
体育会系というやつは
心底うんざりしております
因みにわたしは理系が好きです
というのはおいておいて
一応
「他者」
と言う言葉を使うと
角が立たないかもしれませんね
それを採用して再度説明するならば
「他者の意思決定か必要なので転校は難しい」
そこにまた別の
「親との人間関係」
も入ってきてしまいますから
心理的にもハードルがありますよね
こうなると
逃げる先として「不登校」になる
至極当然の流れです
普通の子供が自ら親に転校したいなどと
掛け合えるとはわたしは思えませんので
多くの子供はただより単純な
「学校に行かない」
という選択をするかと思います
私立とかでなければ
親に金の迷惑を追加でかけるわけでもなく
無難な選択肢だと思います
そもそもの話として
不登校の何がいけないというのでしょう?
みなさんなんとなくそう思ってるだけでしょ?
そりゃあ後付けすることはできますよ?
いくらでも
めんどくさいんで一個しか挙げないですけど
「社会で通用しない」
とか

なるほど
それってつまりあれですか?
「たとえどんな人間関係であろうと我慢しろ」
そういうことですか
なるほどなるほど
では
「凡ゆる人間関係に耐えうる人間を求める」
その姿勢が間違ってないと本気で言えますか?
言えるという者がもしあるならば
さぞ恵まれた人間関係しか味わってきてない
それでいて
いや
だからこそ
想像力の欠如した
能天気なお花畑ヤローだな
というのが
こちらの感想ですね

何でこんなこと言うかわかります?
「感染症でオンライン授業は仕方ない」
なのに
「人間関係が辛くての自宅学習は許さない」
そういう
大人の勝手な都合
というより
あまり考えていないくせに正しいと思い込む癖
いい加減見つめなおした方がいいと思いますよ
わたしは正しさには拘りません
ですからこれが正しいとは言いませんし
よしんば言うことがあったとしても
それは一面的正しさであるとか
不適切ながらも簡潔性を優先して
という前提のもと発言しています
あなたたちにどれほどその視点がありますか
正義中毒みたいな
わたしも確かに
歩きスマホでぶつかってきて暴言を吐くやつ
ポイ捨てするやつ
女を妊娠させておいて堕ろさせる男とか
そういうの嫌いですよ?
三つ目に至っては殺人鬼だとさえ言えてしまう
そこまで思う価値観も一つ持っています
けれど
別に全人類がそう思うべきとも
他人の思想を矯正してやろうだなどと
烏滸がましいことは思ってないんですよ
もしそう言ったことを言うとしたら
それは皮肉で言ってるんでしょうね
恐らく言いませんが
正しさなんてもんは存在しないと思います
学校のテストとか科学的事実とか
それはただ「真」であるだけ
「偽」でないだけ
「True」であって「False」でないだけ
それを
「正しい」や「間違い」とするのが
履き違えの第一歩です
大きな一歩です
真偽には暗に「前提の存在」が仄めかされてる
しかし
正負には暗に「レッテル」が付属している
わたしはそう感じます
真偽は「〜にとって」「〜であるか」
正負は「絶対的+と-」
そんならイメージです
まあ
並べて比較する為に
「正しい」「間違い」

「正負」
と同列に扱うのは
自分でも
「なんか、違うかも」
なんて感じますが
少なくとも言えることは
それは適切な言葉ではないということです
「正しい」「間違い」

もっと具体的にできるはずなのです
それを面倒くさがってるのか簡潔信仰からか
それらの言葉に折り畳んでしまえば
折り畳まれた具体的な部分は見えなくなり
我が民族ご自慢の察して文化全開で
テレパシーを求めるあまり
誤解しあいやすい
そして
誤解するやつをダメとしてしまう
そういう感じを助長するばかりです
「正しい」「間違い」
こららこそ本来
「何かにとって」
「何かの場合」
というプレフィックスが必要であると思います
それを省略してどうとでもとれる状態や
あたかも全面的にそうであるようにしておいて
それを指摘されたら
それが察せられないことを悪様に言うのならば
なるほど
それでは国際社会から置いていかれるのも納得
当然の帰結と言えますね
勿論これはわたしの主観ですよぉ?
全てそうですよ
わたしはわたしの書くこと全てが
わたしの主観であると
わたしの主観で思っています
そしてそのようにわたしが思っていることは
真なのです

そもそも
世間一般でまことしやかに言われる事が
仮に正しいのであれば
みんな成功してなきゃおかしくないですか?
寧ろ世間の正しさに反する人が
大きな成功を掴んでる様に思えます

進撃の巨人はめちゃくちゃ売れました
作者には印税がガッポリでしょう
経済的成功
漫画家的成功
夢を叶えた人
そう言う言い方ができましょう
そんな作者はこんな旨のことを言ってます
「働きたくねぇのです」
「だから漫画を描きます」
「漫画を描く作業が好きなのではなく」

これらは
わたしが一般からよくきかされていたら
まことしやかな正しさに反しています
「好きなことじゃないと成功は難しい」
「好きじゃない作業は続かない」
「働きたくないと思うのは悪いこと」

くだらないですよね
そういう世間一般の正しさに拘っても
得られるものなんて殆どありはしないのに

この件だけではありません
別人格で触れているので挙げられませんが
別の例も多数あります
(別人格の意味を履き違える人もいるやろな…)

あまりにも人々は
無責任に正しさを振り翳し過ぎています
そしてそんなこともわかってない人が本当多い
愕然とします
無知の知さえ知らないのでしょうか
ムチノチノチ

閑話休題
ていうかもう大体お話ししましたね
大分脇道が長いですが…
あとあと切り出すかもしれませんね
ま、それはそのときにまた

とにかくいいたいのは

国も家も学校も職場も
そこに元々いる人間とか
一緒になる人間によって
過ごしやすさや自由さ
幸福感や満足度が大きく変わる
だから
自分に合った場を確保することが
恐らく
主観的幸せに寄与するよ
そんな話


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