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心が遊びたがっている。

心が遊びたがっている。
あの泥だらけの水溜まりで
あるいは
あの雪山の向こうで
あるいは
あの大海原の海底で
あるいは
雑多な人間が行き交う街中で。

心が動かないと

物語をうまく綴ることができない。

本来そのはずである。

私はそのことをたまに忘れてしまう。
目的のためだけに、
決まりきったルールにがんじがらめに
なって茨の蔦に囚われようとする。自ら。

そうして

出来上がった作品(物語)を読み返すと

うまく呼吸ができていないことに気が付く。

うまく

走れていないし、

うまく

立ち止まれていないし、

うまく

笑えていないし、

うまく

泣き叫んでいない。

ここでの
《うまく》とは《自然(Nature)》
のことだ。

Natureでない登場人物はみんな、

嘘泣きをして
嘘の笑みを讃えて
薄っぺらい言葉を吐いて
薄っぺらい感情論を唱えている。

どこへ行くべきか探らず
ただの操り人形として動く。
右へ左へ前へ後ろへ。
指示された後方へのみ進んでいく。
感情を噛み殺して。

主人公は立ち位置を忘れ、
自分を見失う。

WHY?
なぜそうなるのだろう?

それは、書き手が物語を綴ることの
本質を見失っているからだ。

書き手とは
もちろん私のこと。

本来やるべきことを、
本来やりたいことを、
完璧に見失っている。

理論的。

とても法則的で美しいと思う。

倫理観。

すごく重要な視点であり観点だと思う。

論理的思考

物事を考える上で最も役に立つ思考術だろう。

しかし

それらは時に言葉を置き去りにする

言葉は詩的であるべきだ。

そしてそれ以上に

言葉は躍動をし続けるべきだ。

言葉は心のあるがままに鼓動を刻むべきである。

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だから作品を創る上で
もっとも重要なことは
細かい構成や筋書きなどの設定云々よりも
「生きている」あるいは
「生きていく」ことであると私は考える。

主人公が
登場人物全員が
物語を生きていくために、

うまく呼吸をするために、

下手くそな感情が必要である。

本来人間の感情というのは
時に自然に逆らう傾向にある。

我が儘で強情な素振りを見せたり、
優しさで嘘をけしかけたり、
癇癪を起こしてわざと相手を怒らせたり、
泣きたいのに笑ったり、
笑いたいのに泣いてしまったり・・・

人間の感情はどこまでも不器用である。

それでいい。

それが人間だから。

それだから

おもしろい。

物語を心のままに、
物語で生きている人や動物たちの
心を第一優先に、私は世界を書いていきたい。

日記も然りだ。

その日のうちに書いたものは
Natureな呼吸をして
realな感情を示してくれる。

が、

一週間後に綴られたものは
そもそも日記と呼べない。

のみならず、

それは単なる記憶であって
情報の羅列に過ぎないことが多い。


心に素直であるべきだ。

心が躍動していないのなら

何度でも訂正するべきだ。

心が遊びたがるまで
書き手である私はいくらでも
待つ必要があると思う。

まだ、

分からない。

これは確信したことでは決してない。

まだまだ

全てが途中なのだ。
これからもっともっと
気が付くことが
たくさん出てくるだろう。

そのときのために、

今日はここへ
今日の想いを綴らせていただきました。

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目を通してくれた皆さま、
いつも読んでくれて
ありがとうございます。
ほんとうに。


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