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人生に踊り場がほしい

◇「踊り場のない階段を登ることほど疲れるものはないだろう」とは精神科医だった中井久夫先生の言葉である。私たちは日々疲れている。毎日寝てるし、休日だってあるはずなのに、である。

 ふと感じることがある。

 「休み方が分からない」

 かつては働くことと休むことは渾然一体だったはずです。それが気付けば、働くことと休むことが二項対立関係になり、休むために働いているのか、働くために休んでいるのかよく分からない状況に陥ってしまっているように思えます。

 果てには、「楽して稼ぎたい」といった誤った労働観が跋扈するようになった時代です。私としては、心身健康的に働きたいし、そのためにも休みも存分に味わいたいと思うのですが・・。今回は「休む」ことについて書いていきます。

身体は正直

 数年前、体を悪くして入院したことがある。はっきりした原因は分かりませんが、環境の変化、困難な担当業務に身体が持ちこたえられなくなったのでしょう。「身体が休めと言っているんだ」私は内なるメッセージを受け取りました。

 そうでもしないと休めない。そんな状況が、皆さんにもあるのではないかと思います。有給休暇だけでなく、育児休暇なども随分取得しやすくなった昨今。学校現場では、児童・生徒がいる以上、まだまだ気軽に休もうとはなりません。「具合が悪くないと」休めない。この後ろめたさは拭いきれません。

 かつてほどではありませんが、特に体調が悪くなければ学校には行くものだというのも同様でしょう。父親が休みだから家族そろって旅行に行くため休ませます、なんてことがここ数年ちょっとずつ増えてきている。個人的には大いに結構だと思っているが、快く思わない教員、保護者がいることも事実です。

 どこかの記事でも引用したことがありますが、河合隼雄先生は以下のように述べています。

以前は適当に子どもが病気をして、内面化の機会を与えられていたが、最近は医学が発達して、簡単に病気になれないので、「不登校」などということによって調整しているのか、とさえ思われるのである。(略)不登校の子どもに、「必要な引きこもり」の感じをもつことがよくある。それは広義において、非常に健康な反応なのかもしれないのである。

『子どもと学校』河合隼雄(岩波新書)

 そうした意味では、コロナ禍というのも制度的に「休みやすい」装置として機能していたのではないかと思うほどです。

 夏場は似たような例として熱中症もあげられますね。「暑いから無理しないでお家にいよう」というよなコロナ期を思わせられます。
 学校体育の授業では、15分運動したら水分補給の休憩をとるようにと言われています。子どもにとっては体を動かすことは座学に対する「身体的休み」のように捉えられなくもないのですが・・。

 話を戻すと、中井久夫先生は場合によっては思春期の子どもに休学をすすめることがあるのだと言います。

 先日、ある生理学者と話したときに、人間を疲れさせるには踊り場のないエスカレーターに乗せればいい、という話が出ました。踊り場(中間休止の場)は生理的なリラックスの場、生活のリズムをつくる場として大事なものです。東京の地下鉄の駅に、途中に踊り場のない非常に長いエスカレーターがありますが、踊り場の在るエスカレーターと心理的緊張の度合いがどう違うか皆さんが比較してみられるとこの辺の事情がおわかりになるかと思います。

『「思春期を考える」ことについて』中井久夫(ちくま学芸文庫)

 私たちは疲れている。本当に披露しているか別にして、疲れを感じている。仕事や勉強に追われたり、ありは何か目指すものがあってひたすらに突き進んでいたり。
 子どもには夏休みという踊り場があるかもしれない。しかしそれも予定尽くしであったり、中学生以上になると部活で忙しかったりするのだろう。大人には夏季休暇があるにはあるがこれも家族旅行や帰省にあてられてろくに休んだ気にはなれない。むしろちょっと長い休みがあるせいで「仕事や学校に復帰しづらい」とさえ思うかもしれない。

 週休三日制度にしたり、フレックスタイム制で働けるようにしたりする職場も増えているようだが、まだまだ一般的ではないし、少なくとも学校現場は変わりそうにない。

 養老先生の提唱するような、田舎と都市と生活の場を半年おきくらいに変える参勤交代制度があればいいのにと心から思う。

 南伝(テラワーダ)仏教国のタイやビルマなどでは、一時的に僧として修業に行くことができる制度があるそうです。修行と言っても想像するような厳しいものはない。僧になろうとすることが賛美され、あるとき急に公務員が修行に出ると言い出しても咎められるどころか喜んで送り出してくれるのだとか。

 今ある目の前の仕事から距離を置きたいと思っても、冒頭のように「身体が悲鳴をあげる」ことがない限り、その正当性を得られないところが苦しい。誰もが本格的に休むというよりは一定期間ちょっと距離を取るというような制度ができると生きやすくなるなと、妄想しています。

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