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「わからない」ということ

◆こんにちは。小学校教員のねこぜです。お盆休みも終わり、世間は仕事再開モード。学校もそろそろ2学期へと動き出しています。今回は「わからない」ことについて書こうと思います。
 「わからない」って単純に負のイメージが連想されませんか?「こんなこともわからないのか」とか「先行きがわからなくて不安だ」とか、本当はこの「わからなさ」を人々はもっと大事に抱えて咀嚼していけばいいと思うのです。「わからない」ことはすごく価値があることだと思う、その理由を述べます。


1.「わからない」を排除する社会

 今の世の中では、商品にせよ、プロジェクトにせよ、文章にせよ、何でもかんでも「分かりやすさ」が第一になっています。何のためのものかよくわからないモノは売れませんし、何が書いてあるのかよくわからない文章はそれだけで敬遠されます。プレゼンするときは、いかにわかりやすく伝えるかに命をかけます。人々はそうやって「無意識に」わかりにくいものを退け、単純でわかりやすいものを求めているのです。iPhoneを代表とするスマートフォンなんかは特に、説明書要らずで誰でも何となく初めから操作できるようにUIが工夫されています。説明書はありますが、形だけです。
 「もうちょっと簡単に言って」とか「要するにどういうこと?」と物事をできるだけにシンプルにしようと、要点だけを押さえようとヒト、モノ、社会がそうなってしまっています。もちろん子どもも…。

 この四半世紀の間に、日本人の知的水準は劇的に低下しました。ー中略ー
 最大の理由は「話を簡単にする人が賢い人だ」というデタラメをいつの間にかみんなが信じ始めたからです。話を簡単にして、問題をシンプルな「真か偽か」「正義か邪悪か」「敵か味方か」に切り分けて、二項の片方を叩き潰したらすべての問題は解決する……というスキームをみんなが信じ始めた。ー中略ーみんなが「スマート」になろうと、「話を簡単にしよう」と必死に努力を重ねてきて、その結果、国民的スケールで知性の衰えを招いてしまった。
内田樹『複雑化の教育論』

 AかBかという問いは、AかBのどちらかが正解であることの裏返しです。マーク式の入試問題なんかがそうです。しかし、世の中の問題の多くはそうではないはずです。正解のない問いおよび答え、そこにはAでもBでもない新たな視点が必要ですし、そこからこそ見出されるものです。日本の政治問題は与党か野党かではなく、消費税の減税か増税かでもないですよね。よりよい社会ためにはもっと複眼的な視点が必要で、そこには「わからなさ」が必ず内在しているはずです。
 しかし、残念ながら大人も子供も複雑に考えることや「わからない」ことを忌避する傾向があります。学校でも、「わかんない、プイ」とすぐに根をあげる子は多いです。わからなかったことがわかるようになる、その過程こそが学びなのですが。そして、とうとう「別にわからなくてもいいや」とわからないことをそのままにしておく子や「これがわかって何の意味があるのか?」と前回記事のような子が出てきます。

 ただ、ここで内田先生は「わからない」ことを「わからないまま」にできることを人間的特徴であると指摘した上で、以下のように述べています。

ふつうは意味がわからない言葉に遭遇するとスキップしようとしても、なんとなく気になる。引っかかる。喉に小骨が刺さる。なんだかわからないものが呑み込めないままに残っていると、気になって気になって仕方がない。「わからないもの」を「わからないまま」にしておくというのは、人間にしかできないことです。というのは、「判断を差し控える」ということは、「理解したい」という欲望を手つかずに持続させ、場合によっては「理解したい」という欲望を亢進させることだからです。
ー中略ー
わからない情報を「わからない情報」として維持し、それを時間をかけて嚙み砕くという、「先送り」の能力が人間知性の際立った特徴なわけです。ところが、この「無純」と書く学生の誤字のありようを見ていると、どうやらその「わからないもの」を「わからないまま」に維持して、それによって知性を活性化するという人間的な機能が低下しているのではないかという印象を受けます。「わからないもの」があっても、どうやらそれが気にならないらしい。
内田樹『下流志向』

 わからないことを一旦棚上げすることと、そのままスルーしてしまうことは別問題です。それは「わからなかったこと」をあたかも「なかったこと」にしてしまっているからです。そこからは学びという成長も成熟もありません。
 そしてもう一つ。「それはわたしの専門ではありません」という言葉です。これも「わからない」ことを、「わからないまま」にしてしまっていると思うのです。スルーではなく、リヒューズ、リジェクトしてしまっている。

 じぶんが取り組む研究を現在の科学研究全体のなかにきちんとマッピングできてこそ、専門家の名に値する研究者なのである。ー中略ー
知人の言葉をここで引かせてもらえれば、「スキルというものは、隣の芝生に行って発揮されなきゃじつはダメなんじゃないか」ということである。それをなしえてはじめて、現場の人に「やっぱりプロは違うなあ」と言われるのである。
鷲田清一『濃霧の中の方向感覚』

 AかBかで考えるでもなく、スルーしたりリジェクトしたりするでもなく、何か問題あったときに、問いが浮かび上がった時に「いっしょに考える人」を目指していきたいものです。そうなったときに「わからない」ことがあるというのは、成長への大切な大切な足がかりとなるのだと思います。


◆最後までお読みいただきありがとうございます。1章で2000字超えてしまったので区切りとします。書きたいことを書きたいときに書くので気まぐれですが、また訪れていただけると幸いです。

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