ねこぜの現代思想入門「鷲田清一」

◆おはようございます!夏休みは毎日更新すると意気込んで3日目を迎えました!公立小学校教員のねこぜです。よろしくお願いいたします。普段学校で「書く」指導をしておきながら「書く」とはこうも難しいものなのかとnoteへのアウトプットを通じて痛感しているところです。野口芳宏先生は作文指導において「多作、乱作、楽作」の三原則を主張しています。

(1) 多作、乱作、楽作

 古来言われている「作多」の原則は、作文力を高める不変の王道である。私は、とにかく「やたら書かせる」ことを実践してきた。

 一年間に、四百字詰めの原稿用紙を、一人ざっと二百枚は書かせたい。そのくらいを目安にしたい。ー中略ー

 ただ書かせさえすればそれでいいのか、と開き直られれば困りはするが、ひとまずはそれで良いとしよう。それだって、書かせないよりはどんなにいいか知れない。つまり「乱作」をひとまず肯定していきたいのである。

 もう一つ「楽作」と、私は言う。楽しんで書くのである。苦行ではなく、易行として作文を位置づけるのである。子どもにとって、楽しく、面白くなければ、本当に自ら学ぶエネルギーは生まれて来ない。私はそう思う。

 子どもに喜ばれ、好かれ、楽しまれる新しい教材開発をしていかなくてはならない。

https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-473403-0

つまり、自ら「やたら書く」「楽しく書く」を実践しようというわけです。前回は西欧哲学を扱いました。今回は日本の哲学者である鷲田清一先生の『濃霧の中の方向感覚』をアウトプットします。まだ読み切っていないのですが、はっとさせられる記述が多々あるので記録として残していきます。

▷知性とは
反知性主義、ポピュリズムといった言葉を目にすることはないだろうか。アメリカのトランプ元大統領やヨーロッパにおける排外主義、或いは先日行われた参院選を見ても分かるようにポピュリズムはいたるところで勃興しているような気がする。では、知性とは何だろうか。

知性は、それを身につければ世界がよりクリスタルクリアに見えてくるというものではありません。むしろ世界を理解するときの補助線、あるいは参照軸が増殖し、世界の複雑性はますますつのっていきます。世界の理解はますます煩雑になってくるのです。わたしたちが生きるこの場、この世界が壊れないためには、煩雑さに耐えることがなにより必要です。そのことがいっそう明確に見えてくるということ、それが知性的ということなのです。世界を理解するうえでのこの複雑さの増大に堪えきれる耐性を身につけていることが、知性的ということなのです。

『濃霧の中の方向感覚』

世界は複雑である。しかし、現代は様々なことを単純化してしまっていないだろうか。「端的に言うとこういうことだ」「つまりこういうこと?」「要するに~」我々もよく使う言葉だが、複雑なものは複雑なまま考える方がよいということである。特に気を付けたいのがA=Bといったレッテル貼り。アメリカって~だよねとか。なるべく俯瞰して世界を見たいところだが、鷲田先生は俯瞰できる地点などないと言う。一歩引いて見たところで「私」が今立っているその地点さえも特定の歴史を背負っているからである。私たちは固有のストーリーをもって生きている。そこに他者や先哲の視座をもってして複眼的に世界を見ること。これが知性的であろうとする一歩なのだろうと思う。内田樹先生も反知性主義についてよく述べているのでまたいつか扱うことになるだろう。

▷資本主義の限界
これも至るところでいろんな人が言及している。例えば、斎藤幸平著『人新世の資本論』。これもまたいつか扱いたいと思っている。世の中は大変便利になった。不便だなぁと感じることはほとんどない。細かいことを除いて。しかし、この「安楽さ」が気付けば私たち自身に備わっていた「能力」を「喪失」していることにつながると言う。

ひとが生き物として生き存えてゆくために、日々、他の人たちと協同しつつしなければならないこと、たとえば水、食材の調達と調理、排泄物の処理、出産と育児、教育、看病、看取り、防災・防犯、もめ事処理などを、ほぼ全面的に行政や企業が提供するサーヴィスに負うようになっているということです。ー中略ー
それらによるサーヴィスを、住民たちが税金もしくは料金を支払うことによって享受するかたちにしたのです。一世紀半ほどかけて整備されてきたその過程は、同時に人びとがそれらを自力でおこなう能力を失ってゆく過程でもありました。そうして人びとはいつのまにか、それらを自力で協同しておこなう共同体の構成員から、それらを社会サーヴィスとして消費する「顧客」になりきってしまったのです。

『濃霧の中の方向感覚』

続けてこう述べている。「じじつ、現在のわたしたちはそれらの社会サーヴィスが劣化したり機能停止したときに、クレームをつけることはできても、それらを引き取ってじぶんったいでやろうとは思いいたりません。」自分たちの死活問題、社会生活であるにもかかわらずその当事者になれない。なりたいと思っても、能力的にもうなれない。このことに危機感を覚えた。「予測困難な時代だ、そんな時代を生き抜く力を子どもたちに身に付けさせたい」とか言っている教育者の私も同様である。自分でできることはやろう、自分の身は自分で守ろうとは言いつつも、もっと根本的な「生きる」「営む」とはどういうことかを考えていかなければならない。このとき、単なる消費者に成り下がってはいけない。よく〇〇ガチャ、例えば親ガチャとか教育現場にいると担任ガチャとか言われるのだが、これも非常に受動的で消費者マインドに蝕まれた言葉だなぁと思う。受動から能動へ、主体性についてこれからも考えていきたい。

◆最後までお読みいただきありがとうございます。まだまだ書きたいこと、紹介したいことがあるのですが2,000字を軽く超えてしまったのでここまでにします。最初にも述べましたが鷲田先生の本は読了していないので、近いうちに第二弾を書きます。

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