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数学と哲学

◆こんにちは。小学校教員のねこぜです。夏休み期間中のnote 毎日投稿チャレンジも最終日です。スキ・フォロー・コメント・シェアしてくださりありがとうございました。毎日、ちょっとだけ負荷をかけることが時に重荷になり、時に楽しさにもなりました。学びとはそういうものなのだろうと身をもって体感しました。今回は森田真生著『計算する生命』から感じたことを少しだけ書きます。難しくてまだ途中までですが、大変面白い本です。


1.数学の歴史線

 小学校では、「かず」や「かたち」を扱う教科を算数と言います。日常生活に生かすための学習です。意図や目的、イメージがあって、そのために計算したり作図したりします。みかんが4個あって、2個食べたらどうなるか。<4-2=2>で2個残るんだな、という具合です。このように数は個数や量を表すものとして出現します。
 3歳の息子はまだ個数の概念が完全には確立していません。最近ようやく、「1つ」と「2つ」は言えるようになりましたが、3個以上はうまく区別がつけられないようです。4個も5個も同じように見える、ファジーな感覚です。でも、5個と10個だったら、10個の方が多いと、量の大小を見分ける感覚も少しずつ身に付けていることが分かります。その内に指を折り曲げて数え出す姿が目に浮かんでくるようです。実はこの指、右手も左手も同じ本数だけあって、順番も同じように並んでいます。森田さんは、この本数と順番が同じである指こそが、数を数えたり、計算を補助したりするのに有効な最初のデバイスなのだと述べています。
 では、数学はというと、負の数や平方根といったより抽象度の高い、目に見えない世界、観念的なことを扱うようになります。ただし、気温やゲームなので「マイナスいくつ」は日常生活でも用いられるので小学生でも理解している子がいます。なので、<2-4=ー2>だとすぐ答えられる。これは当たり前のようで実は奇妙なことだとすぐ気が付きます。先程、「数は個数や量を表すもの」として出現したと述べました。個数がマイナスになるとはどういうことでしょうか。2個のみかんから4個食べようとしたら残りの実質は0のはずです。

 パスカルの時代に数は、物の個数や長さ、面積などの「量」を表すという常識があった。そこではたとえば、「0-4=ー4」や「2-4=ー2」のような式は「無意味」だった(当時はそもそも「=」という記号もまだ一般的ではなかったが)。リンゴ2個からリンゴ4個を取り除こうとすれば、途中でリンゴがなくなる。まさか結果として「負のリンゴ」が2つ生じると考える人はいないはずだ。ならば、
(1)2-4=ー2
とするより
(2)2-4=0
とする方が合理的である。

森田真生『計算する生命』

 たしかに計算の世界では合理性が求められます。しかし、パスカルが苦悩していたのは負数が人々に受け入れられない不条理さです。マイナスの計算もぱっと理解できてしまう今の子どもたちがパスカルの時代の人々より賢いのではなく、数に対する新しい視点の出現です。このように、「数には、個数や量を表す」意味があるだけではなく、プラスやマイナスといった従属するべき「規則」があることを歴史の中で人々は発見していくのです。

 人類の紆余曲折に満ちた試行錯誤の長い歴史を、私たちはたった数年の学習でいまは乗り越えていく。これは、数を習得するための方法が磨かれ、効率化されたおかげだ。だが、私たちの生得的な認知能力は、古代とほとんど変わっていないはずである。だからこそ、数えたり、計算したりできるようになるためには、様々な文化的装置の力を借りて、生得的な認知能力を拡張する必要がある。この作業は誰にとっても、少なからぬ困難を伴う。

『計算する生命』

 たしかに今では、小学校中学年で筆算をやすやすと行うことができます。これは歴史的に見ればつい最近のことです。これは決して、数世紀で人間の頭脳が大幅にアップグレードされたわけではなくて、学習方法の効率化の賜物です。そこからさらに人間は道具やコンピューターを駆使して、(そのコンピューターを作り出したこと自体も含めて)計算領域を広げて科学を発展させてきました。高校生くらいになると数学が意味の分からないものに感じてしまうことにはとても同感します。しかし、先程のように「意味」を理解するよりもまず「操れるようになる」ことで、事後的に何か理解できたり活用できたりと道が拓けてくるのではないかと森田さんは指摘しています。ここでも「意味付け」は後にくるようです。

2.後で分かるから面白い

 数学に限らず、社会学や哲学もその当時は意味が分からなくて嘆いていたものが最近学び直すことで「そういうことか」と腑に落ちることが多くなってきました。小学校の算数で、6年生で学習する単元に「比例」があります。「比例」と聞くと、ちょっと抽象度が高そうなイメージがありませんか?xの値が2倍、3倍…となるとyの値も2倍、3倍…となる、なんて子どもからしてみても何だかよく分かりません。ところが、養老孟司先生に言わせると「比例」は非常に日常的な感覚的なものだそうです。
 例えば、遠くに富士山が見えるとします。遠くに微かに見える程度ので、迫力も感じませんし、ちっぽけなので簡単に登れそうだと感じる人もいるかもしれません。ところが、段々富士山に近づいていくとその様相が変わってきます。富士山の迫力を感じ、麓までくるととても頂は見えません。こんな高い山登れないよ、となってしまいそうです。富士山の高さは変わらないのに。これが「比例」です。富士山そのものは変わらないのに、近付けば近付くほど高く、大きくなる。こうした身近な数学的事象に気付かせてやれるようになりたいものです。
 2つの数量の関係が比例かどうかも「後で分かる」ことです。逆に言うとはじめから分かってることはあまり面白くないのかもしれません。


◆少し長くなりましたが、最後までお読みいただきありがとうございます。毎日投稿は一旦中断しますが、アウトプットは思考の整理に大変有効なので、「書きたいときに書きたいことを書く」でいこうと思います。

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