ねこぜの哲学入門「カント」
◆こんにちは!連続投稿2日目!公立小学校教員のねこぜです。よろしくお願いいたします。先日の記事に「スキ」してくださりありがとうございます。誰かの目に「映った」ということが分かるだけでも嬉しいものです。にもかかわらず、次回「対話」について補足しますと言いながら全く違うことをアウトプットしようとしています。気分屋なんです…ご容赦ください…。というのもここ一年で読書量が爆発的に増えまして(個人内比較)インプット過多になっています。教育実践書であれば、自分の教育活動に生かすことで整理され取り敢えずはアウトプット完了です。しかし、教養本(現代思想とか西欧哲学とか)はそうもいきません。教育の話からかなり遠ざかるかもしれませんが思考整理、記録のためにいくつか記事を書きたいと思います。
▷ということで哲学である。シャルル・ぺパン著(永田千奈訳)『フランスの高校生が学んでいる10人の哲学者』からカントについて。
▷カントはドイツの哲学者で代表作に『純粋理性批判』がある。
▷人は物事を空間的、時間的に捉える「感性」と物事の原因と結果を探る「悟性」を備えている。空間があり、雨が降った。時間が経つと、そこに草が生えた。なぜ草が生えたのか?雨が降ったからだ。このように逡巡できるのが人であると。犬の上にタライが落ちる。犬はタライに向かって吠えるだけだろう。人の上にタライが落ちる。人は上を見上げ、なぜタライが落ちてきたのか考えるだろう。
ここで重要なのは、認知できないものは説明がつけられない点だ。「世界を創造した神」は、時空間において認知できない。だから神の存在は証明できないというわけだ。その上で、神の存在は証明できないが神を信じることはできる。いてほしいと願い、「祈る」ことができる。神がいることを或いはいないことを証明できてしまうと「祈り」が成立しなくなる。我々は神に「祈る」ことを許されている。これがカントの解釈である。
繰り返しになるが、神という概念をもつことと神が存在することは同義ではない。「神は感じるものであって、証明するものではない」と考えている。そして世界は紛れもなく存在していて、進化の末に歴史があると。
▷では、自身の行動をどう振る舞うか。上述の引用にある「私は何をすべきか」の点について。自分の行動や行為が道徳的に正しいのか、疑問に思ったときは、もし皆が自分と同じことをした場合、社会がどうなるかを想像してみればいいと著者は言う。例えば、皆が自分に都合のいい嘘をついていたら、今の世の中は成立するだろうか。きっと無理だろう。だから、嘘はついてはいけないのだ。良い行為、正しい振る舞いをするために、よく考えることが人のつとめなのだろうと思う。
▷以上、科学的に、理性的に世界を理解することに挑みながら見えざるものを信じ、善を追求していく生き方、人とは何かという問いの結論をカントから教わった。
◆最後までお読みいただきありがとうございました。哲学は難しくとっつきにくいですよね。「つまり、こういうことかな?」と少しずつ頭の中で変換しながら、また、咀嚼しながら読み込んでいくことです。今回はカントを取り上げました。僕の解釈が合っているかは分かりません。詳しい方いらっしゃいましたら是非ご教示お願いいたします。
科学が発達してもなお願うことや祈ることの意義や道徳的な振る舞いなど子どもたちに話し、ともに考えることができると思います。
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