私の恋愛観、結婚観-完-:幸せはどこに?
みなさん、こんばんは。
前置きが長くなりましたね。
これからは私の恋愛、結婚観について語ります。
結論から言いましょう。
これから、その解説をしていきます。
自分が思う理想な人というのは誰もが持っていると思います。
しかし、人間は完璧ではないし、一瞬完璧に見えても、次の瞬間も完璧だとは限りません。
その理想を求めて結婚すると、理想から離れた瞬間から、愛情は遠退いていきます。
最近、ゆかちゃんと一緒にバチェラーやbacheloretteを見ながら思いましたが、大勢の人の中で理想な人を選び選んだ人の末が幸せな結婚とは距離があったのが印象深かったのです。
そこで、私は間違っていなかったと思いました。
自分が思った完璧な人は、条件で考えられるのではなく、暑さで伝わるのです。
自分が今どれほど燃えているのか。その燃える燃料になる愛がそこにあるのか。
私が毒親のもとで育って、キリスト教の教えで苛まれて、友達が救い出してくれて、お父さんが変わるまで、思ったことがあります。
人は今私が認識する人そのものだと。
例えば、人生30年の中で、25年を建前を作って暮らした人がいるとしましょう。
ある人は言うでしょう、
「私には、その建前いらないから、素顔を見せて」
しかし、私はこう考えます。
「建前を建てるのが、自分にとって自然なら、それがその人の素顔」
例えば、心は優しいけど、やる行動全てが、厄介なことだった人がいるとして、
やる行動全てが、いいことだけど、心は悪者の人を考えます。
最終的な判断は神様しかできませんので(キリスト教の大前提)
私たちは、その人をどう捉えるべきでしょう?
私は、行動で認識されるものでいいと思います。
幸せってなんだろう、真剣に考えて、理屈を立てる。
それはいいことです。
しかし、自分が感じる幸せは必ずしも理屈とは合わないことがあります。
私はいつも思うことにしました。今が幸せなら、この後の瞬間のことは考えない。今を感じて、今が次の瞬間になることを待つしかないと。
今まで長いこと言いましたが、それで私が考察して、得た結果です。私がどんないい人になろうとしても、結果はわからない。それなら、愛で、自信を持って振る舞う。相手に思われる自分は自分がわからないし、相手しかわからないのなら、自信もって、今を楽しむ。それがキリスト教の冤罪からの解放であって、毒親にもった恨みからの解放であったのです。
今すべての幸せが実は偽物かもしれない。
私はこう言ってあげましょう。
騙されてあげる。
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