生成AIで創造の喜びを手放すなんてもったいない!

先日、生成AIにおける「学び」と「創造」における著作権や著作権者との関係について自論を述べさせていただきました。
そこでは、生成AIそのものの存在が問題なのではなく、使う人のスタンスが重要なのだ、ということを述べましたが、今回は、その「使う人」自身の人生に対する、生成AIの存在の影響について私の考えを述べたいと思います。

「生成AIの書いた論文を見破れない」はどうでもいいのでは?

著作物の無断使用に関して、新聞などで騒がれている(もしかしたら、こっちの方が最初に話題になったかも⁈)のが、大学生が論文を書く時に生成AIを使用するのは問題だ、ということ。
その議論の中身は、というとこんな感じ。
本人が書かないでAIに書かせると、
・真偽検証がされていないネット上の情報がベースとなってしまう
・AIがネット上で学んだ他の論文の無断使用や引用が行われる可能性がある
・引用したかどうか書いた(書かせた)本人もわからない
・出来上がった論文を読む教授がそれを書いたのが生徒自身なのかAIなのか判別出来ない
それらの理由によって、これでは正しい採点が出来ない!と。
確かに、状況としてはその通りなのですが、ここ、一番大切なポイントが抜けていると思うのです。
それは、
「生成AIに論文を書かせた生徒は、自ら自分の成長の機会と喜びを放棄した」ということです。
それに比べたら、「教授が見破れない」などというのは、取るに足らないことだと私は思います。

「学び」「産み出す」ことは自分のため

私の大学時代、専攻の教授がこう言っていました。
「大学は唯一、自分が純粋に学びたいと思ったことを学んで良い場と時間なんだ」
確かに、例えば高校までは受験に向けての勉強ですし、社会人になったら自分が課せられた仕事のための学習、もしくは余暇を利用して限られた時間の中での学びしか出来ません。
オッサンの小言になるかもしれませんが、大学の「ビジネスのための人材育成センター化」が理念的にも実動的にも加速度的に進んでいるな、と感じる今日この頃。
大学は、生徒の不正を見抜くにはどうしたらいいのか?を考える前に、「学び」と「創造」、それによる「成長」の貴重な機会を生徒が失わないようにするには?をまずは考えねばならないのではないでしょうか。
ただ、それは大学だけの責任ではないかもしれませんが。

「メロディは神様がくれた贈り物なんだよ」byキース・リチャーズ

ローリングストーンズのキースはこう言っています。
これはジャンルを問わず、クリエイターならば誰でも感じることではないでしょうか。
企画屋である私も、うーんうーん、とスタバで唸っている時はとても苦しい(きっとキースだって、いいリフが浮かぶまではとっても苦しいに違いない!)。
でも、ある瞬間にポン!とアイデアが出てきた時には、すごい快感・喜び・興奮があります。
ある意味、この瞬間の中毒というかこの幸せ感があるから、「やめられねえなー、アイデアを考える・創るってことは!」って感じです。

生成AIの是非や使い方は、もちろん議論されるべきだと思いますが、その前に、それを使うことで人生の喜びの機会を失うことがあるかもしれない―――
ということをもっと意識した方が良いのでは?と思うのです。

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