見出し画像

見えている部分は全てじゃない

今日は、ヒトやモノには見ている部分と見えていない部分があり、自分の目に映っている姿はその全てではないという事について考えてみた。

SNSの普及や今の何でもかんでもオンライン化生活が当たり前にならないよう、できれば若い世代の人の目にも留まれば嬉しいな。


例えば、太陽の塔。

はじめて実物を見た人は、きっとこの圧倒的な存在感に驚くだろう。

屋内に収まるはずだった塔は規格外に高くなり、パビリオンの屋根を突き抜いたスケールで完成したというのだから、岡本太郎の名前を世に知らしめるには十分すぎるインパクトだったはずだ。

この太陽の塔は、四季折々さまざまな植物で自然を堪能できる万博記念公園に鎮座しており、正面入口から入場するとその全容堂々たる姿を真正面から拝むことができる。

画像1

こんにちは こんにちは 西のくにから
こんにちは こんにちは 東のくにから
こんにちは こんにちは 世界のひとが
こんにちは こんにちは さくらの国で
一九七〇年の こんにちは
こんにちは こんにちは 握手をしよう

「世界の国からこんにちは」より

おなじみの姿だが、実は横から見るとこんな感じ。

画像2

余談だが、昨年のコロナ渦においては、医療体制の逼迫を受け非常事態を示す「赤信号」が点灯し、太陽の塔は不気味に赤く点灯していた。ただよらぬ危機感がビシビシ伝わり、軽くトラウマになるぐらい怖く感じた。リアル使徒襲来だった。

さて、本題に。

モノにもヒトにも、表があれば裏がある。

いつも見ている姿はあくまで全体の一部であり、全て知ったつもりでいると別の一面を知り驚かされることもある。

画像4

角度を変えると、裏の顔がチラリ。

画像4

ビジネスの顔、プライベートの顔、コミュニティごとに何通りもの顔を使い分け、器用に生きている人も少なくない。SNSのような匿名性のある世界においては、普段と異なる自分が主人公になっているケースもあるだろう。

どこの誰だか知らないからこそ、本音でモノが言えたり、深く共感しあえたり、なんとも不思議な繋がりが成立する。

「知らない人にはついていっては行けません」のきまり文句も、顔が見えないとガードが緩くなったりする訳で、そこにはメリットもデメリットも混在している。

コロナ渦で対面でのコミュニケーションの機会が激減している。もちろんオンライン化で顔を見ながらの授業、会合、飲み会、等々、工夫を凝らした接触の機会はあるだろう。けれど、カメラ越しに映る姿はその人の一面にしかすぎない。もちろん相手の画面に映し出されている自分もしかり。

電源が切れてしまうと全てがシャットダウンされてしまう繋がりに、脆さを感じてしまう。解像度の悪い画面越しでは震わせた肩に気付いてあげられないかもしれない、涙で声にならないような出来事も文字にするとやけにキレイごとに思えるかもしれない、腹の底から涙が出るほど笑える出来事もVTRのように映って深く記憶に刻まれないかもしれない。

どんなに技術が進化したとしても、泣いたり笑ったり、泥臭い経験から得られるヒトとヒトとの繋がりは必要不可欠だと思う。子どもはもちろんのこと、大人だって無いと困る。

コロナ渦が終息して、またいつもの日々が始まったら、カメラ越しだけではない色々な角度からの交流が再開されますように。

表も裏も横も斜めもすべて分かり合える、素敵な繋がりが生まれますように。新しい年度が始まるからなのか、ふとそんなことを思った次第。

相変わらず取り留めのない内容だ。

まいっか、これも一部分。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?