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赤穂緞通最後の織り元は御崎の「西田緞通」(転載投稿)

#先日の余談

赤穂民報」平成14年8月24日号より転載
同記事が友人のウェブサイトに転載されていたが、最近そのページをクローズしたので記録としてココに残しておきます(承認済)。
冒頭の写真は僕が初めて赤穂を訪れた日に撮影されたものですね。記事とは関係ありません。(2019年9月)


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赤穂民報」平成14年8月24日号

赤穂緞通「最後の織り元」西田進一氏逝去

 その製造技法が赤穂市無形文化財に指定されている赤穂緞通の制作に永年携わってきた御崎の西田進一氏が今年5月1日に肺炎のため亡くなっていたことがこのほど分かった。96歳だった。

 赤穂緞通は佐賀県の鍋島、大阪府の堺と並び「日本三大緞通」として数えられる手織りじゅうたん。素材はすべて綿糸。織りから仕上げまですべて手作業で行われ、畳1帖分の大きさを織り上げるのに熟練工でも約20日間かかる。「亀甲」「雲龍」など中国や中近東の織物の流れを汲む幾何学模様のデザインで、堺に比べると落ち着いた色合い、鍋島より毛足が短いのが特色だ。

 江戸時代末期に赤穂郡中村(現中広)に住んでいた児島なかという女性が夫の三郎兵衛とともに緞通を制作したのが始まりで、明治から大正にかけて盛んに作られた。明治末期ころには皇后の御召列車の敷物として、また枢密院玉座の敷物として採用されるなど、その高い芸術性が認められ、ニューヨークやロンドンなど海外にも流通し、名実ともに日本を代表する工芸品として世界に名を馳せた。

 昭和12年ごろから綿花輸入制限などの経済統制の影響で生産中止に追い込まれたが、戦後に復興。進一氏も父の新吉氏が創業していた緞通場にならい、昭和26年に工場を開設した。

 多い時は10人ほどの織り子を雇っていた。織り元の進一氏は織られた緞通を台に貼り付け、水を打って乾かす「敷き直し(しきのし)」を担当。「製品の出来不出来は敷き直し次第」といわれ、どの緞通場も必ず織り元が受け持っていた最も重要な工程。同氏は織り上がった緞通に厳しいまなざしを向け、淡々と仕事をこなした。

 やがて日本に高度経済成長の波が訪れ、手作りのものが人々の生活から忘れられていく中、赤穂にあった緞通場も次々と廃業。昭和40年初めには同氏の緞通場が唯一残るのみとなったが、同氏は採算を度外視してでも赤穂緞通の灯を守り続けた。

 しかし、平成に入り、織り子の継承者が減り、また、素材の綿糸を染める業者や握りハサミを作る職人が亡くなるなど時代の流れには逆らえず、「もはや本物を作るのは難しい時代になった」とこぼすこともあったという。

 赤穂緞通を後世に残したいとの赤穂市や市教育委員会からの要請を受けて、平成3年に「赤穂緞通保存会」の代表に。雇っていた織り子を「織り方講習会」の講師に派遣したため、実質、工場は閉鎖し後継者の育成に協力してきた。

 進一氏の緞通場で織り子として働いていた女性の一人は「だんなはんは口数の少ない人やった。緞通場を閉鎖する時に『うちらはもう休むから、あとは織り方講習会でがんばりよ』とやさしく送り出してくれました...」と声を詰まらせた。

 長男の妻で坂越小学校長の西田美恵子さんは「無口で気骨のある明治男の典型のような人でした。『もう思い残すことはない。わしが残せるのは図案と、作った現物だけや』と口にしていました」と回想する。特に敷き直しの技法については同氏が最後の習得者だったため、これまで保持されてきた技術は同氏の死去により失われたことになる。

 花が好きで、自宅横の畑には野菜は一切作らず、花ばかりを植えた。「花の命は1日限り」と、玄関先の生け花は毎朝、自分でいけかえていたという。

 「家族だけで見送ってほしい」という故人の遺志を尊重し、葬儀は家族と故人の兄弟だけで行われた。花とともに愛した赤穂緞通への思いと誇りを胸に、伝統工芸の保存に懸けた生涯を静かに閉じた。


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