赤穂ギャベが、民藝の枠組みに入るのかどうかってことは、若干悶々としているが、時間と共に噛み砕いていければと思っている。
...お誘いがあって、高島屋で開催されている『民藝展』に、僕が関わっている「赤穂ギャベ」にて参加することになった。高島屋で開催されている『民藝展』は、トリエンナーレのように3年に一度の頻度だと後から知ったんだけれど、コロナ禍の2020年、末席にて参加できたことはとても感謝しております。
民藝とは(簡単に説明)
今からおよそ90年ほど前、大正時代から昭和時代に移り変わっていく激動の時代。民藝運動が始まってから10年、1934年・1935年に日本橋と大阪の髙島屋で『現代日本民藝展覧會』開催されたとされている。会場に高島屋の担当者と柳宗悦(やなぎ むねよし/そうえつ)との関係を説明したパネルもあったので詳細は会場にてご覧いただければと思う。
『民藝展』の会場内に、そもそも民藝とは?を案内されたパネル( DJ_DESIGN 2017年1月号「完全保存版うつわの教科書」 [雑誌] 別冊 Discover Japan からの転載)もあって、じっくり読んでみたけれど、しっくりこない...
工芸は美術工芸であって、日用品は民藝だとするのは、柳宗悦のいた時代での区分であろうな。今だと手工芸、工業製品、美術、アートなど入り混じっている肌感があって、民藝(民芸)という言葉の持つ意味が希薄に感じるのは、僕が京都で生活していることも影響しているのだろうか。
明治維新と廃藩によって東京を軸とする中央政権に移行していく頃、全国の地方産業に不安と迷いが生じたことは容易に想像できる。そんな中、京都は衰退の一途を辿っていた明治初めから四半世紀が過ぎ、多くの尽力にて明治28年(1895年)、蹴上の水力発電所、その電力を使った市電、そして大規模な博覧会の開催を経て、文化、経済の復興と再生がもたらされたという。
京都にも河井寛次郎、黒田辰秋をはじめ、民藝に関わる人物も多くいるかと思うが、おそらく京都人の心意気というか、視界が違ったのだろうな。良くも悪くも京都人がそこにいたのだと思う。
9月9日の会期初日に『民藝展』を訪問したんだけれど、赤穂ギャベに限らず、僕は手仕事・工芸に関わる仕事が多い。モノの捉え方としての用語は時と共に変化もするし、人によってまちまちである。柔軟に受け止めるために意図的に曖昧にしていることもあるが、腹落ちしたり、理解をしていく際に、ある程度の言語化は必要だけど、その時のニュアンスとしてグラデーションを残したままにしている。っと再認識できる機会になった。
ちょうど『民藝展』の正面で展示されていた区画はアートの枠組みでの展示になっており、作者は青柳龍太というアーティストで、僕とほぼ同世代のようだ(初めて知りました♪)。青柳龍太さんの言葉に共感を得たので一部転載しておきます。
そして冒頭画像はその青柳龍太さんの展示。
余談ついでに、工芸ってことに関しての和樂さんの解説もあったので掲載しておきます♪
#民藝 #民芸 #赤穂ギャベ #手工芸 #工芸 #歴史 #青柳龍太
僕のnoteは自分自身の備忘録としての側面が強いですが、もしも誰かの役にたって、そのアクションの一つとしてサポートがあるなら、ただただ感謝です。