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[連載小説]アイス・スチール;チョコミント 四章 3話 お返しはスパイダー

3話 お返しはスパイダー

「伏せてっ、ミオ‼︎」
 グウィンの声とともに、ミオの足元から重力が消えた。
 いきなり引き倒された次の瞬間、目の前に床がある。驚きすぎて痛さも感じなかった。
 床に這いつくばった背中に、グウィンが覆い被さっている。どうしたのかと訊く間もなく、頭上で飛行機が離陸したのかと思うぐらいの大きな音に鼓膜を打たれた。
 わずかにツンとした刺激臭が漂う。床から顔だけ上げたミオが見たのは、自分よりも大きな男を壁にぬいつけているアイスの背中だった。
 その男の目がミオたちのほうを向いたとき、驚いたように見開かれた。
<ABP倉庫>で見かけた人だった。遺産を継いだ子どもがこの部屋にいるから襲ってきたんじゃなかったのか? いぶかしく思ったが、
「グウィン、いま!」
「逃げるよ! ミオ」
 アイスとグウィンの声で反射的に跳ね起きた。廊下に出るより先に、もう一度声をかけられる。
「非常階段に!」
「わかってる!」「わかった!」
 アイスに応える声が重なった。
 ミオも非常階段の場所はすでに確認してある。白杖を使うことなく駆け出したグウィンに続いて部屋を出た。
 エレベーターと反対側に走ろうとして、
「待って!」グウィンの腕をとってとめた。
「ハゲがくる!」
 焦るあまり、つい乱暴な言葉になってしまった。生え際が後退した丸刈りの男が、非常階段のほうから突進してきていた。
 今度はミオがグウィンをリードする。
「エレベーター横の階段に行こう!」
 これはアイスに向けても言ったことだった。
 ——エレベーターの方に戻りたい、なんとかして!
 部屋のまえで、アイスと若い男——チェ一太が素手で応酬している。そこを通り抜ける必要があった。
 アイスが応える。一太の踵を払い、
「ミオ、いま!」
 一太のジャケットを引きつけ、体重を利用した捨て身投げで、自室の中へと倒れ込ませた。
 アイスの部屋のまえを通りすぎようとしたタイミングで、廊下でダウンしていた女が頭をおさえながら起き上がってきた。
 蹴飛ばすか? 覚悟を決めたミオだが、足を踏み出すより耳をおさえた。
 部屋の中からの続けざまの発砲音。気づいたアイスが女にむけて撃っていた。
 肩に被弾した女が、再び床に倒れ込む。
 目の前で飛び散った生々しい暗赤色に、ミオの目の前が暗くなりかけた。
「止まらないで、頑張って!」
 貧血寸前の状態を察したグウィンの声かけがなかったら、そのままへたり込んでいた。


 
 ミオとグウィンが引き返してくる。
 廊下で揉み合ううち銃を落としていたアイスは、一太の踵を刈るように払った。
 一太の身体が傾く。その胸ぐらを掴み、出てきたばかりの自室に向けて引き倒した。
 体格差があるうえ、無理な体勢からの引き込みは、全身を使わないとかなわない。捨て身で床まで道連れにした。
 ひっくり返った一太のパンツの裾から、アンクルホルスターがのぞく。
 アイスは上体を起こしながら肘を一太の胸に落とす。腹筋で跳ね起き、足首からサブ・コンパクトガンを奪った。
 同時に、廊下側で動く気配。
 下から上にむかっての動きはグウィンたちではない。振り向くと同時に発砲した。
 グリップが小さいコンパクトガンで照準が定まらない。撃ちながら照準を調整。装弾数が少ないマガジンを空にするまで撃った。
 一太が眺めたままでいるはずがない。アイスは背後の気配からも逃げる。が、狭い室内で捌ききれない。
 右肩に衝撃を受けた。
 これだけで脱臼が再発しそうな、力まかせの一撃。体勢が前に崩れ、床に手をついた。
 その隙で一太が立ち上がった。
 アイスの故障箇所を知っている。左ふくらはぎを蹴りつけられた。
 卑怯も攻撃方法のひとつ——と、わかっていても向っ腹が立つ。口から飛び出しそうになる絶叫を意地でおさえこみ、気分の悪いダーティトリックを使った。
 一太から視線をずらし、天井を見て叫ぶ。
「蜘蛛っ!」
「!ッ」
 瞬刻で一太の顔から血の気が引いた。気がそれた数瞬を利用する。
 アイスはベッドに放り出してあったタオルをとった。一太の足元で素早く一周。一太が視線を戻すより早くタオルを引く。
 自重を利用して一太の足元をすくい上げ、ひっくり返した。
 狭い部屋の利点は、たいして動かないまま置いてある物に手が届くことだ。アイスはベッド脇の小さなテーブルから魔法瓶をとった。
 蓋を外しながら、一太に向けて注ぎ口を頭に——振ろうとして下方修正。脚に向けた。
 残っていた湯を帯のように広げ、一太の脚に降らせた。
「ぅ熱ッ!」
 一太の悲鳴を音として聞き流す。
 空になった魔法瓶を大きなモーションで振り上げ、殴りつけた。
 アイスは吹っ切るように背を向けた。片足を引きずりながら、グウィンたちを追いかける。


 
 アイスの足音が遠のいてく。
 どうせ追いつけない。一太はふらつく足でトイレ兼シャワールームに駆け込んだ。蛇口いっぱいに開いても勢いが頼りない水シャワーを脚に浴びせた。
 火傷の痛みより、屈辱がまさった。
 ダメージを大きくするなら、魔法瓶の湯を顔にむけて叩きつけるべきだ。
 殴るときにはノーモーションが当たり前なのに、ガードしろと言わんばかりに大きく振りかぶった。
 まだ子ども扱いされているのか。
 まだ対等として認められていないのか。
 そして、
 ——蜘蛛っ!
 複雑な心境だった。
 物心ついた頃から、一太は虫や蜘蛛といったものが大きらいだった。
 酷いパニック発作を起こすほどではないものの、見ただけで汗が吹き出す。母に相談して馬鹿にされて以来、誰にも話さずにいた。<ABP倉庫>に入ったあとはなおさらバレないように気を使って隠し通した。
 理解をみせたのはアイスだけだった。
 ——怖いって気持ちを無理に抑え込まなくたっていい。
 初めてアラクノフォビア蜘蛛恐怖症を理解してくれた人だった。
 蜘蛛をつかって隙をつかれたのは頭にきたが、一太もアイスの故障箇所を狙って痛めつけた。やり返してきたのかと思うと、案外子どもっぽいところがある。
 そして蜘蛛がダメなことをまだ覚えていた。
 これはどう考えていいのかわからなくなる。アイスにとって一太が無関心な存在なら、とっくに忘れられていてもおかしくはない。
 なぜ、覚えていたのか——

 

<ゲストハウス・ファースト>の廊下を進みながら、グウィンは受付部屋に一縷の光を期待していた。スタッフが警備員室に連絡したかもしれない……
「ラウンジのドアが壊されてる!」
 視覚情報をつたえてくれたミオにストップをかけた。
 不穏な予感しかない。白杖を分解し、ダブル・スティックにする。


 ミオは、恐る恐るグウィンの背中越しに受付部屋をうかがった。
 部屋の照明は落とされていた。常夜灯だけの部屋はスタッフも逃げ出して、誰もいないように見える。
 しかしグウィンが身構えたことで、緊張が呼び起こされた。
 常夜灯のあかりが届かない暗がりが動いた。
 男がひとり、ミオにむかって、ゆっくり歩み出てくる。中肉中背で、七三に分けた調髪の四〇代。その手には、目立たない容姿に似つかわしくないものまであった。
 ——おとなしくついてくれば危害を加えない。
 こんな台詞が出てきたら、言われた通りにするつもりでいた。
 怜佳のいない麻生嶋の家に戻りたくはない。けれどそのせいで、ほかの誰かが危ない目に遭うのも厭だ。
 折れる気満々でいたのに、七三分けは問答無用。電卓を叩くような眼差しのまま、肉厚な刃のナイフをいきなり振り上げてきた。
 グウィンが前に踏み出す。退がるにも逃げ場がなかった。
 アイスの部屋の前、非常階段、そしてラウンジ。現れた敵は大人数ではなかったが、アイスが無事なのかわからない。非常階段から逃げたかもしれないし、最悪、倒された可能性も考えないわけにはいかなかった。
 ここにいる敵は七三分けしかいない。けれど、ラッキーともいえない。
 動き回れるラウンジ空間が、グウィンにだけ不利に働いた。狭い廊下と違い、あらゆる方向から七三分けが攻めてくる。
 ミオはグウィンに加勢したかった。が、力がない。手助けの見当すらつかない。もどかしさが募る。
「ミオ、カップを床に撒いて! 音をつくって!」 
 発砲音のダメージで、ぼやける耳が聴きとったのはアイスの声だった。
 音をつくって……そうか!
 ミオは壁際のお茶コーナーにかけよる。両手でカップをすくいあげるようにして持つ。
 床にむけ、広げるように磁器を叩きつけた。
 ありったけのカップを広く撒いて割る。すぐに常夜灯が硬質な音をたてて消えた。これはアイス。
「ミオはそのまま動かないで、じっとしてて!」
 ドアが閉まる音。窓のないラウンジに暗闇が落ちた。何も見えなくなる。
 破片を踏む忙しない音。空を切る音は、グウィンのスティックなのか、相手のナイフなのかわからない。荒い息づかい……
 それらが重なる音をミオは微動だにせず聴いていた。
 一分ぐらいに思えたが、実際は五秒だったかもしれない。低く鈍い音のなかに、短い呻き声がまじった。
 そこでラウンジのドアが開かれた。
「ミオ、出て、早く! グウィン、こっち!」
 ドア枠を頼りにして立っているアイスが、手を叩いて誘導した。
 廊下側の明かりが、トンネルを抜ける出口のように錯覚させる。
 振り返ったラウンジで、さっきの七三分けが顔を向こうに向けて倒れていた。破片の上に寝ているせいで、敵ながら痛そうだ。
「三階に警備員室がある。ミオはグウィンとそこに行って保護してもらって」
「アイスは?」
 じっとりとした汗で額が濡れていた。
「傷が酷くなったんじゃない? 早く手当しないと——」
「麻生嶋ディオゴがくる。ここで一気に方を付ける」
 グウィンが異を唱える。
「あたしも残る。あなたひとり、おいていけない」
「じゃま。グウィンはミオのそばにいてやって」
「まともに動けてる足音じゃない! そんな身体で何ができるの⁉︎」
「優秀な整体師はめんどくさいな」
「足の故障が治らないのは加齢のせいじゃない。原因は麻生嶋——」
 アイスがグウィンの腕にふれた。
 それだけで不満を見せながらも口を閉ざした。
「ミオひとりで警備員室までいかせるのは不安なの。グウィンが聴いてのとおり、あたしの身体じゃ、ミオを迅速に安全圏に逃がすことができない。だからグウィン、お願い。時間がない」
「それはわかるけど……」
 話をすすめられない大人のあいだにミオは割り込んだ。
「警備室で助けを呼んで、早く戻ってくればいいんだよ。グウィン、行こう!」
 アイスが言おうとしているのは「警備員の助けを借りて、逃がしてもらえ」だ。
 そこから要旨をずらして応えた。反論されるまえに、グウィンに肘をつかませて走り出した。
「ミオ、待って!」
 グウィンがつかんでいる肘を引いてとめようとするが、
「このままじゃ、押し問答してるだけで時間が過ぎちゃう。ますますジリ貧だよ⁉︎」
 強引に先を急いだ。グウィンが言いかけていた故障の原因に、麻生嶋の名前が出てきたことも気になるが、あとでも聞ける。たどり着いたエレベーターのボタンを押した。
 やはりというか、遅々として箱が上がってこない。
「階段でいこう」
 グウィンから言い出した。ミオは通り過ぎていた階段へと引き返す。
 下りようとする先、そいつと目が合った。
 階段の一歩目だけ、グウィンは慎重になる。そのタイミングで引きとめた。グウィンも人の気配に気づいた。
 陰鬱な目をした痩せた男が、階段下にいた。
 頬にあざが浮かび、唇の端が血で汚れているせいで、凄惨な雰囲気もプラスされている。
「ア、アインスレーは一緒じゃないのか?」
「別の追手がきてる、上に行こう!」
 アイスの居場所をおしえられるわけがない。ミオは階段を駆け上がった。
 ここで捕まったらアイスが孤立する。上階にいっても隠れるところがあるのかわからないが、上にいく以外の選択肢が思いうかばなかった。
 黙ってグウィンがついてきてくれているところを見ると、たぶん同じ意見。


 エレベーターなど待っていられない。<美園マンション>についた十二村は、最初から階段をつかった。
 一太より先にアイスを見つけたい——
 焦燥が胸をかきむしるのに、すぐに息が上がってきた。呼吸のたびに胸が痛い。ボディを蹴られたダメージがまだ残っていた。
 喘ぎながら八階にたどりつくと足を緩めた。アイスが利用しているゲストハウスは九階だ。上階の状況を感じとろうとした。
 見上げる格好で足がとまる。廊下から見下ろしてくる高須賀未央と視線がかちあった。
「ア、アインスレーは一緒じゃないのか?」
「別の追手がきてる、上に行こう!」
 アイスに加勢したい一心での呼びかけは届かなかった。
 ミオの表情に怯えをみてとり、どう見られているかを思い出した。それでも、アイスの居場所を知るには、彼女に訊くことが最短だ。
 追いかけようとしたところで、片足をひきずるような慌ただしい足音が近づいてきた。
 本人だ。
 アイスもミオを追いかけて上階に向かうかと思ったが、一転、廊下側に視線をもどす。転がり落ちる勢いで階段にふせた。
 実際、こけたといってもよかった。左足から崩れて倒れ込んだ形だった。段鼻(踏み面のヘリ)で足を痛打し、顔をしかめてこらえている。
 声をかけようとしていた十二村も、階段の踏み板に手をついて身体を低くした。
 複数の足音が近づいてきた。黒スーツの男が通りすぎる。護衛の末武が警戒しながら横切っていった。ということは……
 予想に違わずディオゴが現れた。潜んでいるふたりに気づくことなく、悠然と歩いていく。
 用心深いディオゴの護衛が、末武ひとりだけということはないはずだ。最低もうひとりは連れてきている。
 ディオゴの足音が離れると、アイスが上体を起こした。十二村に振りむき、声を落として訊いた。
「やっぱりその顔……4番ガレージに連れていかれた?」
 問う形で訊いてはいても確信している口調だった。
「……アインスレーには関係ない」
「ミスって、あたしの居場所がバレたと言ってたけど、逆になんで黙ってたの?」
「…………」
「まあ、話さなくてもいいけど」
「おれの都合なだけだ」
 意に反して一太にもれてしまったものの、ディオゴにも報告せずにいた。
 一太の配下になったのは、ディオゴに命令されるがままに受けた、お目付け役だった。
 変化に尻込みして命令されるがままの十二村とは反対に、アイスはここにきて離反している。心を揺らされた。
 食い扶持のためだけで、ディオゴに付き従っていていいのか。
 黒子しかできなくても、誰の黒子になりたかったのか……
「足止めさせて悪かった。じゃ」
 アイスが口元をわずかにほころばせ、あげた片手でハンドサインを出してきた。人差し指と中指をクロスさせた意味は、
 ——幸運を祈ってる。
 それから左足をかばうように、静かに階段をのぼっていった。
 アイスが<ABP倉庫>を離れれば、もう接点はなくなる。今生の別れの言葉になるかもしれなかった。
 十二村は焦る。また遅かったのか。踏み出せないでいるうちに、本意と離れた結果を受け入れるだけになってしまうのか……
 のんびり考える時間はない。


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