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[連載小説]アイス・スチール;チョコミント 五章 1話 金ではなく、感傷よりも

1話 金ではなく、感傷よりも

 ミオは、物理的な暴力とは無縁な生活をしてきた。
 何かと自制がきかない幼児期、ケンカをしたとしても口喧嘩だけ。手を上げることはもちろん、物を投げつけたりすることもなかった。行動範囲が広くなる一〇代になってからも、ケンカに巻き込まれたことはない。
 それがいまや、裏組織の構成員から逃れようと必死になっていた。
 ジョギング経験すらろくにないまま、走行距離一〇〇キロメートルのウルトラマラソンに挑戦している気分。ゴールできる気がしない。
 現に逃げようとする先は屋上で、行き止まりになることがわかっていた。
 それでもミオは、あきらめたくなかった。遺産をめぐって振り回されるばかりでは悔しすぎる。
 店舗フロアを歩いた感じからして、<美園マンション>の建築面積はかなり広い。屋上で追い詰められても逃げ回れるスペースがあるなら、時間稼ぎができると思った。
 そうすれば、先ほどの騒ぎで警備員が追いついてくるかもしれないし、アイスが打開策を思いつくかもしれない。
 そして、望みが失われていないのは、グウィンが一緒に走っているからだった。
 視覚情報がとぼしい彼女が敵から逃げ回るというのは、精神的にもヘビーなはずだ。追われる元凶はミオなのだから、グウィンひとりで逃げれば安全も得られる。
 なのに見捨てようとはしないグウィンがいると、負けるなコールをもらっている気分になれた。
 ミオは、走り続ける。


 階段室から屋上まで、ストレートにはつながっているわけではなかったが、グウィンが経路を知っていた。
 グウィンの足は、ここでも速かった。ほとんど白杖を使わずに進んでいく。
「屋上に行くのに何度もとおった場所だからね」
「内緒で?」
「そう。これでミオも共犯」
 追われている焦燥をやわらげたくて、互いに場にそぐわない明るい口調になる。
「『禁止』といわれると入りたくなるよね」
 階段から少し通路を進んだ先、「関係者以外立ち入り禁止」を警告するドアがあったが、
「鍵はかかってないよ」
「あ、ほんとだ」
 ドアハンドルを回すと、あっさり開いた。このまま屋上に隠れて、うまくいけば……
 希望的観測はグウィンの警告ですぐに消された。
「誰かくる」
「え⁉︎」ミオには何も聞こえない。
「ア、アイスが追いついてきた——」
「あの足音は違う。ミオが先にいって。すぐ先に階段があるから、そこを上がって」
 グウィンのエコーロケーション——舌で打つクリック音のテンポが早い。どんな言葉よりも説得力がある「急げ!」だった。
 グウィンが背中側についたのは、追ってくるやつが撃ってくるかもしれないからだ。自分が盾になるつもりでいる。複雑な気分で走った。
 むき出し配管がうねる狭い通路を抜け、人ひとりぶんの幅しかない急な階段を上がる。スチール製の重い扉をあける。
 屋上に踊り出ると、そこは無秩序な空間だった。
<美園マンション>の屋上は、周囲のビルより高い。パラペット胸壁が低いこともあり、聞いていたとおり空が広く感じられた。
 ただし視線を落とすと、室外機や大型排気ダクト、非常用自家発電機に高架水槽といったものが設置されていて、足元には室外機につながる冷媒配管が這っている。
 さらに水槽のそばには、ビルの設備機器とは関係ないものまであった。
 デザインがアンバランスなアウトドアチェア三脚とパラソルがあり、高架水槽のハシゴとパラソルに、フックでわたした洗濯ロープがはってある。吊り下がった小さな鍋とタオルは、ここで誰かがアウトドアをしているらしい。
 この乱雑な空間に逃げ込めばと思う間もなく、追いかけてきた足音にとらえられた。
「そこの子ども、こっちへ来い!」
 ミオが知っている男だった。彫りの浅い顔立ちにまばらな顎髭は、麻生嶋の会社で見た顔だった。名前は、テラダかテラタニのどちらか。「来い」と言われても、これみよがしに大きなナイフを掲げ、強面で怒鳴りつけてくる男のそばに行くはずがないのに。
「ミオは隠れてて」
「あいつ、ごついナイフ持ってるよ?」
「いいから、あたしのそばに近づかないようにして」
「ごちゃごちゃ話してないで、さっさと来い!」
 迫ってくるテラダもしくはテラタニに、グウィンが前に出た。ミオは大型室外機の後ろにまわりこむ。
 離れろと言われた訳がわかった。
「じゃまだ、てめぇ!」
 テラダを阻むグウィンの反撃に、これまで見た的確さがなかった。スティックを振る手数で、かろうじてテラダの進行を防いでいる。
 空調設備の駆動音が、グウィンを妨害していた。
 テラダの足音や呼吸音を掻き消し、エコーロケーションも無効化してしまう。テラダが着ているスプレイグリーン淡い青緑色のジャケットで、どうにか位置を把握しているらしかった。
 後続の追手がきている気配はない。ミオはひとりで引き返し、警備員室にいこうかと考える。
 室外機の影から飛び出すタイミングをはかったとき、グウィンが屋上に這う冷媒配管に足を引っかけた。大きくバランスを崩す。
 好機とみたテラダが、ナイフを振り上げた。
 ミオは思わず身を乗り出す。足が何かを踏んづけた。これだ。
「グウィン、そのまま!」
 足元に転がっていたモノをつかんで投げつけた。
 さして大きくもないから、テラダに当たったとしてもダメージは小さい。だから数でいく。
「な! やめろクソガキ!」
 誰がやめてやるか。ミオは、室外機のそばに放置されていた、よくわからない部品を手当たり次第に拾って投げつけた。その隙で、グウィンが転がって距離をとる。
 投げたひとつがテラダの頭にぶつかり、たたらを踏んだ。もうひと押し。
 なのに、投げつけるものがもうない。
 額から血を流し、逆上したテラダの目がミオをとらえた。


 体重をかけるたびに痛みが増していく。膝の曲げ伸ばしもスムーズにいかない。
 アイスは業を煮やしながら、屋上に通じる急な階段を一段ずつあがった。いうことを聞かない左足がもどかしかった。
 筋挫傷の応急手当も、そのあとのリハビリも、グウィンがずっと面倒をみてくれた。長くても二ヶ月ほどで治るはずだった。ここまで引きずっている原因は、グウィンが言いかけたことで正解だと思う。
 おそらく、こう言おうとしていた。
 ——否定的な感情は、封じ込めたつもりでも身体症状になって出てくるんだよ。
 いまさら向き合っても手遅れでしかないと、蓋を閉めたままにしていたことだった。
 しかしよりによって、そのしっぺ返しが、いちばんの友人の危機に間に合わないかもしれないという形であらわれた。もう自分で自分の首を絞めたくなる。
 階段をのぼりきると、すっかり息があがっていた。深く呼吸し、息を落ち着かせようとする。
 塔屋のドアが、すでに開いていた。
 警戒しながら屋上に出る。地上付近から這い上がってくる、わずかな明かりを頼りに目をこらす。グウィンとミオの姿をすぐに見つけた。
 グウィンと争っているのは寺田てらだだ。ほかに誰かいる様子はない。
 機動性に欠けるアイスは、まっすぐグウィンの元にいかなかった。引きずる足が音をたてないよう注意しながら、場違いなパラソルまで移動する。
 ミオがグウィンを援護しはじめた。たくましくなった要保護者が稼いでくれる貴重な時間で、アイスは洗濯ロープをとった。
 ふたりを巻き込みかねないので銃は使えない。ロープに下がっていた鍋を外し、回収されずに放置されていた鋼管継手を拾う。洗濯ロープの先に結びつけた。
 外れないことを確認して、
ナイスワークNice Work!」
 いい仕事をしたミオへの称賛は、寺田にも効いた。投げつけるものがなくなったミオに向かっていこうとした寺田が、アイスの声に振りむく。
 その寺田にむけ、アイスは継手を鋭く投げつけた。
 ストレートパンチとなって寺田のストマックを突き刺す。
 素早くロープを引いて、継手を戻す。
 腹に一発いれたぐらいでは寺田からダウンを奪えない。距離を詰めながら、もう一投。
 くの字になった体勢から顔をあげた顎に継手をぶつけた。
 今度こそダウンした寺田からナイフを蹴り飛ばす。神経が集中する、みぞおちに蹴り下げをいれた。これで、しばらく動けない。
 命を奪うとどめは刺せなかった。


 ミオはグウィンを助け起こし、アイスに声をかけた。
「大丈夫……じゃないよね。なにをしたらいい⁉︎」
 膝に手をついているアイスが、荒い呼吸を整えながら応えた。
「寺田がいるということはディオゴもきてる……から、はやく——」
「どういうことだ? アインスレー」
 オーダースーツを着た男の登場で、アイスが言いたかったことがわかった。もっとも、逃げるタイミングは逸していた。
「たとえおまえでも離反の扱いは変わらないんだぞ?」
 麻生嶋ディオゴとその手下の黒スーツは、すでにハンドガンの銃口をアイスにむけている。力づくで従わせる意思表示だ。
「特別扱いは期待してない。まずは関係ない、そこのふたりをこの場から帰して」
「そういうわけにいかん」視線を移したディオゴが見据えてくる。
「高須賀未央さん、きみを縛りつける気はないから追わずにいたが、家出されたままでも心配なんだよ」
 言葉は穏やかでも、猛獣みたいな目つきに気後れしそうになる。グウィンの存在をそばに感じながら、ミオは声を押し出した。
「わたしの自由な行動は、おじさんにとっては勝手な振る舞いになるから?」
 途端にディオゴが眉根をよせた。
「この街は遊べる所がたくさんあるが、危ない人間も多いんだ。勝手に出歩くんじゃない」
「ここにいる白衣の彼女が一緒です。問題ないでしょう?」
 ディオゴを見ると、いやでも銃が目に入る。息が浅くなり、手の先が痺れた感じがする。全身で脈拍を感じて、震えそうになる声で続けた。
「第一、わたしの後見人はおじさんじゃありません。帰るなら怜佳さんのところです」
「逆らうんじゃない。黙って言うことを聞け!」
「落ち着きなって、ディオゴ」
 銃で狙われているとは思えない、のんびりした声でアイスがとりなす。わずかの間で息を整えていた。
「組織のトップを張ってるなら、人の意見を聞く度量をみせなよ。逆ギレしてたんじゃ誰もついてこない」
 訂正。火にガソリンを注いだかも。


「おまえこそ、つっかかる言い方じゃないか。おれから離反して、本音を言えるようになったってわけか? アインスレー」
「その前に——」
 アイスは右手を腰の横へとゆっくり上げた。
「ケーシー白衣の彼女にむけている銃口をおろせ。あたしへの脅しのつもりなら悪手だよ。こっちも同じ手でやり返すだけだ」
「黙れ、手を——」
 言葉より見せた方が早い。最後まで聞かず、寸秒でハンドガンを構えてみせた。
「巻き添えをつくれば、あたしが従うとでも?」
 ダブルハンド、かつ命中精度が上がる六メートルの距離でディオゴを照準する。これにはアイスを照準している末武も撃てないままでいた。
 アイスはディオゴに銃口をむけ、ディオゴがグウィンに、末武がアイスに。
 互いに銃を向けあうハリウッドフィルムもどきの三すくみに、この場にいる全員が動けなくなる。不用意な一挙動だけで、誰かが撃ってしまいそうだった。
「おれには逆らえないさ。他のやつらが『アイス冷淡』と呼んでいても、アインスレーにはぬるいスキがあることをおれは知ってるからな」
 そうして視線だけミオにやった。


「さあ、帰るんだ。<美園マンション>なんて、女の子がいていい場所じゃあない。君のためを思って言っているんだ」
 この人もかとミオは思う。よく聞かされる「あなたのためを思って」は、言った側の自己満足だったり、別の意図が込められていたりで、たいていは言われた本人のためのものではない。
 さらに反発をおぼえたことがある。言わずにいられなかった。
「男の子だったら構わなかったんですか?」
「瑣末なことを掘り返してないで、早く来い!」


「あたしも訊きたいことがある」
 アイスはディオゴの矛先を自分へと戻させた。
「そんなに急いで、ここから早く離れたい理由は?」
 ディオゴの目が一瞬だけ泳ぐ。図星だったようだが、うそぶいて返してきた。
「適当を言って混乱させるつもりなら無駄だ」
「正直な靴先が、早く帰りたいと塔屋に向いてる。長居するとマズいことでも?」
「おれに手間をかけさせると、ほかの人間が傷つくことになるぞ」
 はぐらかすボスの一言で、末武の銃口がアイスからグウィンへと移った。
 グウィンならいまの状況を察しているはず。
 なのに表情すら変えることなく、落ち着いたものだった。スティックもいつの間にか繋ぎ合わされて、一般的な白杖に戻っている。
「子どもを盾にするのはやめろ、末武。寝覚めが悪くなって後悔するよ」
 アイスの忠告は末武に向かってのものだが、同時に状況をグウィンにつたえた。ミオの背後に末武が回り込んでいた。
 アイスの銃口が、ディオゴから末武に照準をかえると、ディオゴもアイスへと照準する。
「おまえを撃ちたくない。このことは不問に付してやるから、銃をおろして早く帰れ」
 ディオゴの台詞をアイスは聞き流した。話す相手は末武だった。
「整体師とミオを解放しろ。わたしとディオゴだけですむ話だ。弾をばら撒くのが<ABP>のやり方になったの?」
「従わないなら、おれを撃ちますか? 子どもに貫通させて」
「末武だけに当てる自信があるから退けと言っている。おまえのガタイでミオを盾にするには無理なの、わかってるでしょ。死体を片付ける手間と費用でやりたくなかったけど、証明してやろうか?」
「これでも<ABP倉庫>を築いた佐藤アインスレーを仰いでたんです。張り合うなら本望だ」
「こんな仕事をしててもポリシーがあってね」アイスの声が無機的になる。
「子どもを道具にするなら、射殺なんて楽な死に方はさせない」
「目を覚ませ、アインスレー」
 苛ついた口調でディオゴが口をはさんだ。
「寝返ったのは報酬が足りないからか? それとも我が身を振り返って、その子どもに同情したか?」
「金に同情ね……。ほかに理由は思いつかない?」
「とにかく銃をおろせ。駆け出しの頃から組んできた相棒と9㎜ピストルナインを突きつけあってる、こんな状況おかしいだろ」
「そういうあなたは銃をおろしていますか?」
 落ち着いたグウィンの声が、昂りつつあった状況に水を差した。
「相棒というならアイスの意見も聞いてきましたか? あなたは自分の言い分ばかり主張している印象を受けます」
「他人におれとアインスレーのことはわからない。黙ってろ」
「簡単なことです。ミオを連れ戻すにしても、本人の意思を確かめたようには聞こえない。アイスにも昔からその調子だったのでは?」
「判断が未熟な子どもに聞いてやる必要はない。アイスはおれの相棒だが、組織のボスはおれだ。どちらもおれに決定権がある」
 ミオも黙ってはいなかった。
「わたしだって未熟なりに考えます。なのに助言を与えて考えさせ、育てることはしないのですか? おじさんは人を育てずに、育った人を使うだけの人なのですか?」
 こういうところが実に大人びていた。
 ミオの表情からすると、かなり腹を立てているように見えるが、声を荒らげるようなことはしない。でないと感情的だと無視されることになる。
「子どもだからといって、気持ちを無視していいことにはならない。正しい判断ができるかなんて、別の話でしょう?」
 そして、ディオゴには説得力に欠けるところがあった。ミオが容赦なく突く。
「おじさんがわたしを強引に傍におこうとすることと、早くここから立ち去りたい理由は同じですよね。わたしのそばに怜佳さんがいると、都合が悪いからじゃないですか?」
 ディオゴが返答に詰まる。そこに賛同する声が加わった。
「反論できる?『おじさん』」
 アイスは、やはり来たかと思う。ミオがその姿に唖然となっているのもわかる。かつての怜佳からは想像もできない姿だからだ。
 ハンドガンを手にした怜佳が現れた。


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