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[連載小説]アイス・スチール;チョコミント 一章 3話 こっちの水は甘い

3話 こっちの水は甘い

 長く使った建物は、愛着もそれなりに大きくなる。
 そうはいっても、麻生嶋怜佳のもうひとつの家といえる<オーシロ運送>社屋は、廃墟の二歩手前といってよかった。
 波型スレートの外壁や屋根はすっかり色があせ、紫外線で劣化した看板は、社名がぼやけてしまっている。内部も外観と同じく、埃と汚れが厚く染み込んでいた。
 事務所は殺風景かつ簡素につき、デスクやイスは予算不足の役所のフロアのものより古びている。ファイルがごっそり減ったキャビネットも、こうして見るとあちこち塗装がはげてサビが浮きはじめていた。
 クーラーはいちおうあるが、経年で咳き込むような稼働音を響かせている。よくここまで使い込んだものだと感心するぐらいだった。
 彩乃あやの——ミオの母親のオフィスとは天と地ほどの差だな。
 ひとりで苦笑しながら、怜佳は給湯スペースの小さな冷蔵庫から、冷やしたジャスミン茶を用意した。ひとつは客用のグラスに入れ、そばのソファにおさまっている高須賀未央のまえにおいた。
「ここにいても退屈でしょ。ミオは従業員用の休憩室にいたら? テレビがあるよ。ほかに誰もいないから、気兼ねはいらないし」
「どうしてここまでやってくれるの?」
 グラスを見つめたままでミオが訊いてきた。
「後見人なら当然じゃない」
「会社の仕事に影響させてまで?」
 ミオは母親に似た聡明さをうかがわせることがある。まるで彩乃に問い詰められているようだった。
 学生の頃に知り合った彩乃との友人関係は、お互いが結婚してからも切れることはなかった。ミオが生まれると、今度は三人で会うようになっていた。
 ベビーウェアを着ていたミオが大きくなり、言葉数が増えるほど、子どもと話している気がしなかったのを思い出す。 
「ミオが思うほどの悪い影響はないよ。損しないよう、ちゃんと考えてやってる」
「なら、いいんだけど……」
 重要な紙資料や帳簿の類は、すでに﹅﹅﹅移動させてある。従業員には仮事務所で仕事をしてもらっていた。
「そんなことより、また背中曲がってる!」
 ミオの背を軽くはたいた。
「ソファに座ってるんだから、しょうがないよ」
「立っていても、肩が前に丸まってるよ?」
「それは……目立つのイヤだから」
「せっかく背が高いんだから、姿勢よくしてカッコよく見せなきゃ、もったいなくない? 彩乃だって、あの身長でヒール履いてたんだよ」
「…………」
 しまった。母親を思い出させる余計なひと言をいってしまったか。怜佳は話題をかえた。
「ごめんね。麻生嶋がもっと一般的な夫婦だったら、ミオを引っ張り回すようなことにならなかったんだけど」
「いまからでも断ってくれていいよ」
「なにを?」
「後見人」
「……やっぱりいや? わたしの実家は実家で、こんな零細企業だし——」
「そうじゃなくて! 怜佳さんが危ない目に遭うのが厭なの。施設にいくほうが、わたしも気が楽だし……施設にだって、いい人はいるっていうし……」
「気を遣わせてごめん」
 怜佳は隣にすわる。ミオの肩を抱いて告げた。
「後見人はわたしにやらせて。ミオのこれからを支えられるのも、唯一無二の親友に頼まれたのが嬉しいっていうのも本当だから」
 ただ、彩乃にはもっと早くに頼ってほしかったと思う。
 自らの身を犠牲にする手段しか考えられなくなるまえに相談してくれていたら、最悪の結果は避けられたはずだった。
 連絡はいつも彩乃からすることになっていた。そうして時間の自由がきく怜佳が、彩乃の仕事の都合にあわせて会う。
 連絡がこなくなったのは、仕事の締め切りのせいだと怜佳は思っていた。
「ほんとに〝そのひと〟来るのかな」
 悔恨から現実の問題に引き戻される。グラスをとろうとしていた怜佳は、結露で手をすべらせそうになった。
「っと! あぶない、あぶない」
 ミオには照れ笑いでごまかす。これから来るはずの人物に緊張していた。
 見目は平凡で、給湯室で和んでいるような雰囲気をいつもただよわせている。その実、<ABP倉庫>の汚れ仕事を引き受けてきた女を待っていた。
「もしかしたら、平穏な話し合いですまないかもしれない。だからミオには別の場所で隠れていてほしかったんだけど?」
 ダメ元でもう一度訊いてみたが、
「味方になるかもしれない人なら、わたしも会ってみたい。怜佳さんが話をしようとするんだから、むやみに暴力をふるったりする女性じゃないんでしょ?」
「そんな軽率なことはしないと思う。希望的観測だけど」
 彼女の<ABP倉庫>での立ち位置はディオゴの下だが、実質的には対等というのが、昔を知るABP社員たちの見解だった。
 しかし怜佳には、それ以上にみえた。ディオゴをうまく制御して<ABP倉庫>をまわしていそうな気配すら感じた。
 だから勝負に出る。
 ディオゴが資金調達にやっきになっていたところに飛び込んできた後見人話だ。彩乃とその夫の遺産に、ディオゴが強引な方法でもって手を出すことは想像に難くない。身を隠すだけでは不十分だった。ディオゴから逃げているだけでは解決しない。
 そして、怜佳が無謀ともいえる計画をたてたのは、ディオゴに報いを受けさせるためでもあった。


 アイスは<オーシロ運送>の壁面看板を車検場と駐車場にはさまれた建物で見つけた。
 目当ての運送会社は、駐車場の広さからして2トンや4トン車を中心にしているらしい。憶測なのは、トラックが一台も駐まっていないからだ。
 仕事ですべての車が出払っているのか、ディオゴからの使いを想定して人払いさせたか……。後者なら手間がかかりそうだった。
 アイスの望みは、怜佳とミオが逃げていてくれること。
 ディオゴが高須賀未央を取り戻すために使うだろう手段を予測してみると、力づくになる展開しか思いうかばない。子どもをまじえて、そんなことはしたくないし、私情がまじったゴタゴタに関わることも避けたかった。
 すでに怜佳たちに戻ってくるよう説得する気力は失せている。説得の台詞が思いつかないのは、このまま逃げたほうが怜佳も幸せになれそうな気がするせいだ。
 <ABP倉庫>は大所帯ではない。限られた数の追っ手の目をかいくぐり、街の外に逃げ出すのは、さして難しいことではないのだから。


 アイスは<オーシロ運送>の銘板が掲げられたドアの横、インターホンを押した。真正面からくる間抜けな追手を出し抜いてくれますように……
 その願いも空しく、怜佳が出てきた。
「入って。わたしとミオ——高須賀未央しかいない」
 淡いベージュのサマーカーディガンに、ミディアムブルーのボトム。いつものナチュラルカラーでまとめた怜佳に、二メートルの距離をおいたままで言った。
「怜佳さんが〝そういうこと〟をきらう人だって知ってるけど、背中も見せてくれない?」
 逃すつもりでいるが、殺られるつもりはなかった。追い詰められたり、思い詰めた人間は、何をしてくるかわからない怖さがある。
「そういうことを〝きらっていた〟って過去形になったから、どうぞ調べて」
 意味ありげな台詞に、それ以上の説明はなかった。怜佳は身体を反転させ、自分からカーディガンの裾をあげる。
 ウエストや背中に何も隠していないことを証明し、
「武器は持ってない……あ、そっか」スキニーデニムに手をかけた。
「下着になって見せれば信じてもらえるよね」
「脱がなくていいよ」思わず笑んだ。
「スキニーパンツの下に隠せる方法があるなら、ぜひ知りたい」
 アイスがここに来た目的を察しながらのおふざけ。なかなかの胆力だ。
「お互い、はじめましてじゃないし、すぐ話をすすめましょう。わたしがこのまま連れ戻される気は一ミリもないのは見当がついてるでしょ?」
「逃げる気はないんだ」
「提案があるの」
 自信に満ちた双眸をむけてきた。


 怜佳が屋内を先導して歩く。その背中につきながら、アイスは無人の事務所に視線を走らせた。
 備品などの物置にもなっているから、そこそこ広い。外観とおなじく、時を経た感のある事務所だった。重なった埃が建物の一部となって内装の色をくすませ、モノクロ映像のなかに入り込んだような錯覚がおこる。
 明かりもつけず、ブラインドが下ろされているせいで薄暗かった。壁際に設置してある消火用品の赤と、埃でくすんだオレンジ色の羽が、とぼしい彩になっている。後者は、スタンドタイプの工場扇業務用扇風機。年代物の風格がただようクーラーの働きを補うためだろうが、回せるとは思えなかった。
 事務所全体が埃っぽいのだ。
 古くても整頓がいきとどいた事務所なのに、細かな砂だか錆だかが床に散ったままになっていた。
「どうぞ座って」
 怜佳が給湯スペースの隣、パーテーションで区切られたスペース入る。ソファに目的の人物がいた。
「こちらのお嬢さんが騒動の元の?」
「人聞き悪いこと言わないで。騒ぎにしてるのは、そっちじゃない」
 本日の主役である高須賀未央が、ソファから立ち上がることなく応えた。アイスを冷たい視線で刺し、厳しいセリフでやり返す。
「怜佳さんが言ってた殺し屋って、このひと? 全然見えないんだけど」
 らしく見えないのは本人がいちばん承知している。そこはともかく、
「ずいぶんストレートな職業説明を聞いたんだね」
「違うって言わないんだ」
 事実と認めてもミオは落ち着いていた。
「作り話だとでも思ってる? 殺されるかもよ、高須賀未央さん」
「特に持病もない高校生が『病死』じゃおかしい。『事故死』で?」
「くわしいね。あと、そういうふうに取り繕う必要がない方法もある」
「でも、わたしを殺したらお金が手に入らない。怜佳さんに聞いた限り、そんな馬鹿をする人だとは思えない」
 アイスは視線を怜佳にうつした。
「あたしを持ち上げてくれたのは、この子にあなたの『提案』を納得させるため?」
「将来がかかってることを本人抜きで実行するわけにはいかないから」
「そして最初の『話をすすめましょう』? あたしを巻き込むために、ここに隠れてるって密告させて、来るように仕向けた。ほかの部下が来るかもしれないのに」
「体面を気にするディオゴが、逃げた妻の後追いを手下に任せるはずがない。かといって本人は、目下の仕事に忙しい。となるとディオゴの好物が実はシュークリームだってことまで知ってる佐藤さんに任せるしかない」
「話の流れからして、ディオゴを裏切れって持ちかけられてる気がする」
「裏切れないほどの関係?」
 確信しているような目に、アイスは答えに詰まる。考えないようにしていたことだった。
「座らないの?」
 アイスは立ったままでいた。ソファの後ろから動かず、話すには少し遠い距離をおいている。
 その距離を怜佳は縮めようとする。アイスを見上げる形になっていることを計算に入れ、懇願するように言った。
「ディオゴから身を守るために、佐藤さんに味方になってほしい」
「こんな交渉をするぐらいなら、あたしのことは調べたでしょ? ディオゴとは五年、一〇年のコンビじゃない」
「<ABP倉庫>のトップを決める経緯をディオゴから聞き出した。佐藤さんがトップを譲ったことに、納得できる部分はある。
 わたしは大学生の頃にはすでに<オーシロ運送>の経営にかかわってた。あるとき電話をとったら、初めてかけてきた先方から『男を出せ』って言われたことあるもの。ご希望にそって、二日前に入ったばかりの中年男性を出してあげたけどね。
 新しい取引先をふいにしたかもしれないけど、惜しいとは思わなかった。そんな人間はトラブルをおこす可能性が高いし、わたしにっては『しょうがない』で忘れられる話でもない。たとえ面倒をおこさないやり方だとしてもね。わたしが<ABP倉庫>にノータッチだったのは、仕事内容や麻生嶋が気に入らないことと並んで、裏業界のマチズモに迎合するなんて、まっぴらだったから」
 アイスは気にしていないふりをしてきた。その割きれなさを怜佳が一気に代弁していく。
「根拠もなしに、ディオゴを見切れって言ってるんじゃない。佐藤さんとディオゴで新しく<ABP倉庫>を起こしても、商売のやり方は古い慣習そのまんま。縁の下で佐藤さんを働かせて、派手な成果はディオゴのもの。わたしにはディオゴが、佐藤さんを都合よく使ってるようにしかみえなかった」
「はっきり言うね」
「信用してもらいたいから本音で話してる。それに傍から見ていての疑問もある。ディオゴとのあいだに信頼関係は本当にあったの? 裏切りっていうのは、信頼関係にある者同士でこそおこることよ。ここで佐藤さんがディオゴから離れることが裏切りになる?」
「一〇年前に聞かされてたら気持ちが動いたかも」
「いまからでも遅くない。これを機会に<ABP倉庫>から自由になればいい」
「トラブルは御免だ。逃亡者として生き残る元気だって、もう残ってないよ」
 吐き出した言葉は、いつもの笑みとともにあった。
 お気楽なのか、あきらめの笑みなのかわからない、曖昧な笑み。


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