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【業者vs僕】一部のクレーマーに基準を合わせて生きていく

ある夜、僕みたいなもんでもお風呂に入ろうと湯沸かしのスイッチを押したときのこと。

お風呂の温度を表示する液晶画面に「888」という数字が現れた。

悪魔の数字だ。

このお風呂には悪魔が宿ったのだ。

と思った。

説明書を見てみると、「定期点検のお知らせ」だという。

そもそも悪魔の数字は666だ。

長く使っていると、そろそろ業者に点検してもらってね、という表示が出るそうだ。

普通にお湯も沸くし、使用にはなんら支障はなかったが、ずっと「888」と表示されているのも気になるので、業者に連絡してみた。

すると、翌日すぐ来てくれた。

約束の時間通り現れたのは低姿勢でとても気のいい、白髪のおじさんだった。

しかし、一つ気になったことがあった。

おじさんは玄関で靴を脱いだとき、その靴を自分のバッグにしまいながら家に上がってきたのだ。

なんで靴そこに置かないのかなーと思いつつ中に通すと、「給湯器があるベランダに失礼しますね」といって、一直線にベランダへ向かった。

そうか、ベランダでまた靴を履くからか、とも思ったが、ベランダでは小さなスリッパのようなものを取り出して履いていた。

おじさんはベランダに出ると「網戸は閉めておきますね」とだけ言い残し、作業を始めた。

「よいしょ」

「あー…」

「よし、と…」

ベランダからわずかに聞こえてくるおじさんのリアル作業音をBGMに中で仕事をしていると、外から「すいません、これちょっと動かしてもいいですか?」と、ほうきやちりとりが入っているカゴを指して言ってきた。

「どうぞ。全然もう、お好きに」と返した。

作業が終わると次はお風呂場に行き、「お風呂の蓋開けていいですか?」「湯が出てくる蛇口、これ開けていいですか?」と聞いてきた。

「どうぞ」と。

母は家に業者さんを入れるとき、必ず茶菓子を出していた。小学生の僕はその残りをマークしていたので、よく覚えている。

大人然として僕も作業してるおじさんに麦茶の一杯でもと思い、冷蔵庫からよく冷えた麦茶ポットを取り出し、コップに注いだところで思った。

こういった行為は余計なお世話なのかもしれない。

おじさんは作業をする上で、家のものを動かすなり触れるとき、必ず僕に同意を求めていた。

「なに勝手に動かしてんだ!」と怒られたことがあるからだろうか。

思えばあの靴も「玄関に靴置くな!」と言われたことがあるのだろうか。

コロナ禍とは言え、家のものに一切触れずにガス点検ができるわけがない。

そもそも、おじさんだって感染リスクはあるわけで、知らない人の家で麦茶を頂くのはいささか怖いはず。

ご厚意はありがたいと思っても、それを受け入れてしまってなにか問題が起きたら会社で…と思いは巡る。

「いえ、大丈夫です」と断れば「俺の麦茶が飲めないのか!」と怒る人もいるかもしれない。

世の中は、1割の、いや、0.1%の変な人のことを考えて生活しなければならない。

自転車に鍵をかけておくのも、盗む奴がいるからで、空き巣がいるから、戸締まりをする。

しかし、僕は空き巣の人に会ったことがない。「自分、空き巣っス」と発表する奴もいないが。

0.1%でも犯罪に巻き込まれる可能性がある以上、やはり対策はしなければならない。そもそも、犯罪者には誰もがなり得る。

しかし、玄関に靴を置くのはこの日本において当然の慣習であり、それを指摘されるリスクも考えて対応しなければいけないのは、さすがに苦しくなかろうか。

点検に来てくれた人に「家のものに触れるな!」「靴を置くな!」と怒る人って、全体の1割もいないだろうが、その1割の人がワーっとネットで騒いだら、自分は解雇されてしまうかもしれない。

とすれば、行く家全てに120%の配慮をしていかなければならない。なんともしんどい。

そう思いを巡らせ「いろいろ大変ですね…」と麦茶一つ出すこともためらう。

こうなってくると、いよいよ僕とおじさんの心理戦だ。

脱衣所に呆然と立ち、お風呂場で作業するおじさんの背中をじーっと見つめる僕。これは新手の覗きか。

結果、互いに無駄口を聞かず、とりあえずなんとかやり過ごそうという、冷戦状態に突入する。

逐一確認を求めるおじさんのために、僕はここいたほうがいいだろうか。

かと言ってかける言葉も出ない。ただ背中を見ているしかない。

ふと、雨に打たれて歩いている、小学生の女の子のことを思い出した。

夕方、17時過ぎだったか大雨の中、薄暗い道路を車で走らせていると、傘もささずに一人で歩いている女の子が視界に入った。

小学2年生くらいか。結構小さいぞ。

回りに親っぽい人も誰もいない。あれ…。

見慣れない光景に思わずハザードをたき、女の子の近くで停車しようと思ったその瞬間、我に返った。

雨の中、変なおじさんが少女を車に連れこもうとしている

外からはこう見えるに違いない。

僕は人相も良くはないし、もし怖がられて泣かれたら通報確定だ。

そもそもなんて声をかける?

ぼくー、ひとりー?

僕じゃないだろ。

あなた、ひとり?

俺は歌舞伎町のポン引きか。

お嬢ちゃん、今ひとり?

やっぱり通報だ。

例え連行されても事情を話せば解放されるだろう。しかし、少女に声をかけて連行されたことがあるとかないとか的な噂は、ぼんやりと広がりそうだ。

話というのはいつだって、おかしな方向へ雪だるま式に大きくなっていく。

正義か悪かもよくわからない自分と戦いながら、その女の子を尻目にミラーで追いかけながら通り過ぎてしまった。

まあ、わりと大通りだったし、大丈夫だろう。

大通りだから大丈夫なのか。

なら、人気が少ない道だったら声かけてあげたほうがいいのか。その方が怪しいだろう。

あのときどうすれば良かったのか。

そんなことを思い出しながら、いったんキッチンに戻ると、注ぎかけの麦茶が目に入った。

そのときだった。

「終わりました」

という声がお風呂場から聞こえた。

僕は思わず麦茶を隠した。

作業が終わり、おじさんはバッグに入れた靴を取り出し、深々とお辞儀をして帰っていった。

僕も腰を90度曲げてお辞儀した。まるで取引先とのお別れの一幕のようであった。

冷戦は、日本特有のお辞儀で終戦となった。

なんとも寂しい世の中だな、と僕は注ぎかけの麦茶を飲み干して、何事もなかったかのように仕事に戻った。

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