人として好きか嫌いかだけでいい
改めて数えてみると、友達は10数人しかいなかった。
決して多いほうではないだろう。
僕は重度の人見知りであるので、特別これ以上欲しいとも思わないが、同時に、重度のお喋りであるから始末が悪い。どんなことでも「なにか」を目にすると、誰かに話したくなるのだ。
でも友達がいないので話す相手がいない。
おそらくインターネットというのは、そんな寂しい人間の集まりである。本当のリア充は、ネットもSNSも熱心にやらない。
“リアルが充実”してるから。
なので話し相手がいない非リア充は、雑記ブログを作って、そこで片っぱしから吐き出していく。
映画においては、映画批評専門のブログを作った。
こういったブログ等で思ったことを書くとき、気をつけていることが一つだけある。
それは、世間の評価を見ないということ。
前回も書いたが
いろんな情報を見てしまったが最後、あらゆる意見に引っ張られてしまうのだ。
嫌いがマイナス10、好きがプラス10としたとき、どんな意見を持ったとしても、考えは全て0に近づいてしまう。ある種の思考停止だ。
多くの知見には触れるべきだが、最初に感じたことこそが「自分」なのだ。例えなにかが欠如していても、それが自分。そのありのままの状態を、人は「個性」と呼ぶ。
世間の評価を見れば見るほど、自分は薄まっていく。いっぽうで、利口になったという捉え方もある。小利口になっただけ、とも言う。
個人ブログはその名の通り個人のものなので、自分のままでいいのだ。noteもそう。
指摘を恐れて薄めた自分を晒すくらいなら、欠けた自分のままでいい。
しかし、人はみんな薄まってしまった。
YouTubeでは、コメント欄を見てから評価を決める。Twitterならリプ欄。ニュースならYahooコメント。それらを見てから自分の意見を決定する。
ネットという実態なき世間の評価に、いかに合わせられるか。そのコメ主が小学生であるとも疑わずに、いい大人がその意見に左右される。
そもそも、あらゆる評価の統計を取ってその中庸を取るのは、AIがもっとも得意とすることだ。
SNSをよく利用している人と話してみると、どこかみんな似通っていると感じることがあるが、これは、少しずつ人が均一化されつつあるからだろうか。
先日、養老孟司さんの講演に行ったとき、おもしろいことを仰っていた。「AIが人間になろうとしているのではない。人間がAIに近づいているのだ」と。
俳優、モデル、社長、人を惹きつける肩書きは山程ある。
3ヶ月でフォロワー○人!バカでも年収○万!といった、最近多いこの類もそう。
これらは社会的信用度であり、言うなればこれも世間の評価だ。
でも僕はこの情報も見ない。
見ないと言っても先に目に入るんだから、実際見ないわけにはいかないが、つまり、ここに本質的な価値は見出さない。
では、人を見るとき、なにを見るか。
肩書を排除し、その人のどこを見るか。
僕はここを見る。
「全裸で走り回れるか」。
この一点だけである。
文字通り受け取ってもらっても構わないし、それくらいの根性があるかないか、と受け取ってもらってもいい。
すごい美人だなー、チョメチョメしたいなーと思っても、こいつ本当に根性汚え女だな、こんなつまらねえ女と会話しなきゃいけないならもういいや。
お金持ちでいいなー、俺も儲けたいなー、でもそんな人生歩んでまで金持ちになりたくねえや。
どれだけ世間に評価されていようと、こいつ根性ねえな、つまらねえなと思えば、その人間に関心を持つことは一切ない。
だってその人が大金持ちだったとしても、僕にお金をくれるわけでもないし、美人だろうと、その子と僕がどうなるわけでもない。
ゴマすろうと媚びようと、別にこちらにメリットなどない。だから好きにすればいいし、こちらも好きに判断する。
おもしろいか、おもしろくないかだけで、勝手に判断する。
社会的に落ちこぼれとされている人であっても、こいつは半端ねえ、マジで全裸で走り回りかねないと思ったら、もっと話を聞いてみたいと思うし、自分の話も聞いてほしいと思う。
つまるところ、人として、好きか嫌いかだけでいい。
その判断基準は自分の心でいい。
子供のころ、仲良くなる相手を理屈で選んでいただろうか。おそらく、体感的な感触で動いていたはずだ。
余計な情報はいらない。世間の声など気にするな。
情報に振り回され、嫌いなのに好きなフリを続けていれば、心が疲れてくるのは当然である。
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